アクセサリーシューの話④

ペトリのカメラ

ペトリの最初の一眼レフは1959年発売のペトリペンタ。このペトリ最初の一眼レフはM42,プラクチカマウント。2年後にはマウントが専用スピゴットマウントのV2が発売され完全自動絞り化された。専用スピゴットマウントはペトリV6やFTなどに使われていたがペトリ最末期、倒産する1979年には、またM42マウントのMF-1を発売している。

M42マウントの初代ペトリペンタ

 ペトリの一眼レフは最初と最後がM42マウントという珍しいパターン。ヤシカの一眼レフは最初ヤシカペンタマチックで専用バヨネットマウント。その後M42マウントの一眼レフを多数発売。経営破綻後コンタックスマウント(バヨネットマウント)のカメラを発売した。マミヤの一眼レフ(35ミリ)は1961年発売のプリズマットNPはエキサクタマウント。1962年発売のプリズマットWPは三本爪の専用バヨネットマウント。1964年発売のプリズマットCPはM42マウント。それ以外にもニコンFマウントのニコレックスFやM42マウントのリコーシングレックスもOEM生産していたわけで、いろいろ作っていた。その後は1966年M42マウントのTLシリーズ、定位置ロックピン付きのM42マウントのSXシリーズの時代が続く。1978年にはまた専用バヨネットマウント(CSレンズシリーズ)使用のNCシリーズ。1980年には電気接点が多数あるZシリーズに変わという傍若無人ぶり。ZEクォーツにNCのSXシリーズのレンズが付くことは付くが実用的ではない(レンズの指標が 横に来てしまう)。

 ペンタ最末期の横走り布幕フォーカルプレーンシャッターのMF-1はM42マウント ペンタ部に電気接点のあるホットシューが付く

 レンズマウントの話ではなくアクセサリーシューの話に戻すと、我が家にいくつかあったアクセサリーシューをペトリのカメラに付けてみる。Petriと刻印のあるアクセサリーシューは四角いファインダー接眼部の左右に溝があり、その溝に差し込む。ところがV2、V3には差し込む溝が有るのに初代ペトリペンタにはこの溝が無い。

アクセサリーシューを付けたV2,V3と付かない初代ペトリペンタ

 アクセサリーシューを付けたV2,V3のペンタ部に付いているシボ皮は単なる飾りだと思っていたが、アクセサリーシューを付けた際にペンタ部に傷が付かないように配慮したものかと思う。そう考えるとペトリのカメラは誠実丁寧に作られていたのかなとも思う。(ニコンの一眼レフのペンタ部にも皮がはってありますね)

左からペトリペンタ、V2、V3

 では、ペンタ部に皮を貼っていない初代ペトリペンタにはアクセサリーシューは付かないのでしょうか。

初代ペトリペンタとV2には、巻き戻しクランク側の軍艦部側面にネジ穴がある

 初代ペトリペンタでは巻き戻しクランク側の軍艦部側面のネジ穴にアクセサリーシューを取り付けるようになっていた。ペンタ部にはかぶらないので皮は貼ってないってことかな。V2には軍艦部側面のネジ穴も有るし接眼部の溝もあった。要するにどちらにも装着できることになる。初代ペトリペンタとV2には巻き戻しノブの左に使い道の分からない突起が有るが、これはアクセサリーシューを固定するための突起だった。

我が家のマミヤファミリーに付いていた軍艦部側面のネジ穴に付けるアクセサリーシュー
ペトリペンタ、V2にあるき戻しクランク横の突起

 V2とV3の一番のちがいはシャッターボタン側の軍艦部前面に外付け露出計装着用の二つの突起とシャッタダイヤルにシャッタースピード連動のためのピンが出ていることだと言える。他にもセルフタイマーのレバーや巻き上げレバーの軸の皿ネジが黒いか、アクセサリーシューを取り付けるネジ穴と固定のための突起が有るか等が有るがこれは個体により変更時期が違うこともあるようで我が家のペトリでもいくつかのバリエーションがある。

V6Ⅱとアクセサリーシューと外付け露出計を付けたV6
作り付けのアクセサリーシューが付いたFTとホットシュー付きのFTⅡ
ペトリの中で一番のお気に入りペトリカラー35。35ミリフルサイズなのにハーフ判のオリンパスペンやキャノンデミに負けない小ささ。(後期のデミに比べると明らかに小さい)
1961年発売のプリズマットNPはエキサクタマウント
右端の1962年発売のプリズマットWPは三本爪の専用バヨネットマウント。

現有19形式 ⑯ 最強の超大型貨物機D52 

山北駅の南側沼津方面側に保存されたD5270 昭和46年頃

 D52が登場するまで、旅客機は重幹線にC53、C59を、幹線にC51、C57を重幹線、幹線ともD50 、D51の単一形式としていた。これは、D51、D50が出力的にC53、C59に匹敵していたためと考えられる。しかし、設計的にはD51の軸重は15tにも足らず、C59の16tに比べると重幹線に対して貨物機を大型化・強力化し得る余地が残されていたのである。
 鉄道輸送は長大列車に編成できることが他の陸上交通機関のまねのできない優れた特色である。よって列車単位はなるべく大きくした方が輸送力を増大でき、かつ輸送コストも低減できる。重幹線用の貨物機としてD51を上まわる超大型機は昭和14年頃から研究されていた。第二次大戦の末期、戦時輸送強化ののために製造された国鉄最強の貨物用機関車D52は生まれるべくして生まれた機関車であったと言える。

山北機関区が廃止されたのは昭和18年、戦争中の話 それ以後も箱根越えの補機の基地として転車台もあり、いつもD51やD52の煙が見えた。
駅の北側にある美容室

 私の父の実家が山北駅の近くにあり、子どもの頃は毎年数回訪れていた。夏休み、従兄に連れられて酒匂川で鮎釣りをしたり、ミカンの木に「鳥もち」(今は禁止されています)を仕掛けてメジロを捕まえたりした思い出がある。ボ~とした小学生だったので記憶が定かでないことも多いのだが、駅の周りの様子は今とはだいぶ違っていた。駅の北側の方が表口のような感じで商店街もあった。最近テレビドラマのロケで使われたレトロな佇まいの店も残っている。それに引き換え南側は殺風景だがホームからほぼ段差なく踏切を通って改札を出ることができた。

 父の実家は駅の南側に出て左に3分ほど歩いたところにある。今は立派な町役場が前にあるが、当時は電電公社の建物があった。その短い距離の間に、使っていないコンクリート製の給炭台のようなものがあった。そこに上がって沼津方面から来た機関車が転車台で方向を変え出発する様子を眺めていたことがある。横には日通の倉庫があった。駅の南側国府津よりのところに転車台があり、昭和44年以降も使わなくなった転車台がしばらく残っていた。高校生(昭和47年頃)になってその転車台を撮影した記憶があるがネガも写真も見当たらない。今となってはその転車台がどの辺にあったのかはっきりしないが、電電公社、町役場と公的な利用がされているということはこの一帯が山北機関区(国鉄)の敷地というか国有地であったからだろう。

D51の足回りに極大のボイラを載せたD52

 D52はD51と同じミカド形の軸配置に許容される最大限の軸重に収まるように超大型ボイラを搭載した設計で基本設計はD51以降の近代化標準機の手法が踏襲されてる。
D51の足回りにいかに極大のボイラを載せるかが設計上のテーマであったようだ。

1951年以降の整備改造後のD52 カツミシュパーブラインシリーズ

 基本設計の完成したころから、戦時の急迫のため、極力製作工数を削減し、また、資材の節約を最大限に計った、いわゆる戦時設計が要求された。銅、錫等の非鉄金属は極力代用品を使用することとし、デフレクター(煙除け)、ランボード(歩み板)等の木材で間に合うものは努めて代用、ドームカバーの工数の省略(四角)工作の厄介なものは廃止といった具合であった。したがって昭和18年に誕生したときの戦時設計D52の形態は、超大型機の期待に必ずしもふさわしからぬものであった。しかし、性能的には所期の目標通りD51をかなり上回る高性能が得られたようだ。16番の模型でもアダチから発売されたD52はこの戦時形から発売された。角型ドーム、木製のデフ・ランボード、テンダーの石炭囲い部など誕生時の姿を模型化している。私としては美しいとは思えず、手持ちの機関車と混在させる気にはならない。

バックサインをつけて広島駅で上り特急かもめの到着を待つD52 という妄想 
瀬野機関区では山陽本線の花形列車である「かもめ」の補機にテールマークを装着した。写真のマークは広島区の機関車用のヘッドマーク。ヘッドマークは所属機関区、梅小路、広島、下関、門鉄局共通で違う。

D52が面目を一新し、原設計通りの性能に戻ったのは、1951年以降の整備改造後である。徹底的な点検と整備の動機は、1945年にボイラ破裂事故が3件も起こったからである。整備改造は浜松と鷹取の国鉄工場、少数は広島工場でも担当した。内容はボイラ外火室板の取り換えまたは新ボイラーとの交換が主体で、新規には自動給炭機(ストーカー)を搭載している。給水温め器を煙突前方に移設、炭水車に中梁を設ける、ドーム、煙誘導版(デフ)及び炭庫上部の柵などの原設計への復帰等はD51戦時形と変わらない。「不格好な戦時形のD52が工場に入ってくると、約10日位の工程ですっかり見違えるような形態と充実した内容となって出て行くのを、深い満足感でい送った」(久保田 博著 懐想の蒸気機関車)

現有19形式 ⑮ 栄光の超大型旅客機 C62

カツミ製 シュパーブラインのC62砂 砂撒き管は外に出ている。

 戦時中大量に増備されたD52は、終戦後の貨物輸送の激減によってかなり余剰になり各機関区に赤錆びたD52が放置された。この余剰D52の旅客機への改造であった。この改造名義の新製で生まれたのが栄光の超大型旅客機C62で、49輌のD52が転用された。軸配置2C1のパシフィックC 59より一まわり重くなるため軸配置を2C2としなくてはならず狭軌では不可能に近いと言われていた2軸従台車を巧妙なっ設計によって実現している。D52の超大型ボイラを1750mmの大動輪に載せ国鉄の機関車では最高のボイラ中心高を採用している。砂撒き管はボイラ・ラッキングの下に配管されているのが原形だが後の改装で実態は様々な変化がある。C62のドームは汽車会社製(37~49)は前後端同形(前後対象)日立製作所(1~21)・川崎車両製(22~36)は後部がややなだらかだ。

C622が頭で当たり「2号機にあらざれば蒸気(カマ)にあらず」

 私が中学生だった昭和40年代中頃は蒸気機関車終焉に近づいていた。北海道のC62はツバメマークをデフレクターに残したC622がスワローエンジェルと呼ばれ熱狂的な人気で「2号機にあらざれば蒸気(カマ)にあらず」といった雰囲気だった。ニセコのC62重連の撮影でも2号機が前だと当たり、都合によりⅮ51が前に付いたりすると大ブーイングだったようだ。

C623が頭でまあまあかな この方がリアルな感じかも?
C62のドームは汽車会社製(37~49)は前後端同形(前後対象)日立製作所(1~21)・川崎車両製(22~36)は後部がややなだらかだ。

改造所別機関車番号は
日立製作所(21輌)C621~21
川崎車輌(15輌)C6222~C6236
汽車製造(13輌)C6237~C6249

C622もC623も日立製作所 一体ドームの後ろがややなだらかなタイプ 砂撒き管はボイラ・ラッキングの下に配管されている

 C62のストカーは国鉄動力車課と民間の共同で、給炭部分は発動機製造株式会社(後のダイハツ)、機関部は汽車会社が担当している。発動機製造会社は現大阪大学の研究者を中心に創立された会社で、後に〇〇発動機という後発メーカーがいくつもできたので大阪の発動機、略して大発(ダイハツ)になったそうだ。そう言えば昔ダイハツのオート三輪には大阪城のエンブレムが付いていたような。ミゼットはどうだったでしょう。

C62 カツミ製ゴールデンシリーズ これも砂撒き管はむき出し一体ドームは日立製作所・川崎車輌の後ろがややなだらかなタイプ

現有19形式 ⑭ハドソンの名機C61

私が九州撮影旅行に出かけた昭和43(1971)年の春 奥羽の生き残りC612(三菱重工にてⅮ511109より改造)が青森区から日豊線に転属したのを宮崎区で撮影した記憶があるが、そのネガが見つからない。

 戦時輸送の最優先から、戦後は旅客輸送が増え余剰になっていた貨物用のD51のボイラーを従台車を2軸にした新製のC57の下回り走行装置に載せたのがC61。
 1947年~1949年までに33輌が製作された。当初の計画ではD51➡C61・D52➡C62ともそれぞれ40輌としたが、その後の重幹線の強化のためC62が増加してC61はその分減らされた。C61は余剰形式の活用により製作費を削減する会計上は改造名義とされていたが再生再利用品の補修費を加えると新製費の約80%を要し、改造の範疇を超え実質は新製に近いものであったと言われている。

C61は東北・鹿児島の両線では特急用として活躍した。写真の天賞堂製C6130 の実車は九州に行ったことはない。

 C61・C62の形式の命名は変則的で母体名の末尾と関連させている。(D51➡C61、D52➡C62)その時点ではC60は欠番で後の1953年にパシフィックC59を改造したハドソンの機関車に若い欠番を充当し、C59とC60は連番になっている。製造は三菱重工製21輌、日本車両製12輌。東北・鹿児島の両線では特急用として活躍した。

C59手前とC61後ろ 一体ドームやテンダーの形態の違いが判る。
天賞堂製C61 C6130は日本車輛でⅮ511144より改造東北で活躍した機関車 青森区で廃車

 C61・C62のハドソン2形式は、改造と言っても新製に近い、古いものを使用したのはボイラ本体、加熱装置、火格子装置、バネの一部や連結器などの共通部品に過ぎなかった。足回りは台枠の中間鋳物など一部流用しているが、全くの新製と見なせる。ボイラは転用にあたって精密検査のうえ一部改造されたとはいえ、1955~1959年にほとんど全部が、国鉄工場製の新缶と交換されている。したがって新旧機関車番号の対照はあまり意味がない。

C61牽引の「はくつる」に盛岡からC60の前補機がつく。

現有19形式 ⑬ 戦後のハドソントリオ C60

 C60は重幹線の東海道、山陽線の電化の伸長によって余剰になったC59を幹線の東北、常磐、鹿児島、長崎線に転用するため、2軸従台車を採用して動輪軸重を軽減する改造を昭和28年に行った。

C602 川崎車両製C5962より浜松工場で改造 盛岡区で盛岡式小デフ(煙突周り)・旋回窓を取り付けた。1968年青森区で廃車

 1953年~1961年にかけて47輌改造され前期型C59から39輌、後期型からはC60101以降のナンバーをつけた8輌に分かれる。従台車はC61・C62とは変わった形となり鋳鋼製と鋼板溶接構造とがある。

昭和35年「はつかり」使用車両を新開発のキハ81系気動車に置換え。
「はつかり」日本初の気動車特急となる。
昭和39年東北本線初の寝台特急「はくつる」が品川客車区所属の20系客車で運転開始。
盛岡式小デフ(煙突周り)・旋回窓を取り付けた天賞堂製C60とカツミダイヤモンドシリーズC59改造のC60走行性能はどちらも良好。単機で特急を牽引させたい。C59・C60の切り欠きのない長い長方形のテンダーがよくわかる。
C59・C60とC61はテンダー以外も違いがみられる。C59・C60の一体ドームは前後ほぼ対象。C61はC57やⅮ51と似て後ろがなだらかに傾斜している。

 昭和39年東北本線初の寝台特急「はくつる」が品川客車区所属の20系客車で運転開始。

C61牽引の「はくつる」に盛岡からC60の前補機がつく。南部縦貫鉄道のレールバスが見えるので野辺地駅付近か?という妄想。
東北線では特急・急行はC61、C62の牽引が原則でC60は普通列車に充てられることが多かった。これはストーカーを装備していなかったのが理由のようだ。

南部縦貫鉄道レールバス

保存されている旧七戸駅
今年の一月南部縦貫鉄道を訪ねてみた。平日は公開していないことはしっていたが、隙間から少しでも覗ければいいと思っていたら、南部縦貫の方やレールバス愛好会の方が丁寧に対応してくださり、楽しい思い出になった。
令和二年1月29日
16番とNゲージ両方で

現有19形式 ⑫ 交響曲231パシフィック最終章C59

C591汽車会社製 鹿児島本線熊本電化によるさよなら蒸気下り特急みずほ博多~熊本間牽引 熊本区で廃車 九州鉄道記念館で保存 撮影はO君

交響曲231パシフィックの序章C54はわずか17輌の製造にとどまり感銘を受けなかったが、第二章以降はC55➡C57とゆるやかに盛り上がり最終章C59へと進展していく。D50を継ぐ近代標準機D51が昭和11年に登場。D50と同一グループの大型旅客機C53を継ぐ近代標準機がC59 であるが、その誕生は予想外に遅れた。第一陣のD51に続いて昭和12年に中型旅客機C57 、昭和13年に中型万能機C58 と相次いだが、待望の大型旅客機のC59 が誕生したのは昭和16年でD51 に5年も遅れた。C59 は3シリンダーのC53 をオーソドックスな2シリンダーに戻しているのが第一の改良といえる。そしてD51 、C57 、C58 の近代化標準機の技法を結集した近代標準機のラストを飾る最も洗練されてむだのない最強最後のパシフィック機だったと言える。大型テンダーは国鉄の蒸気機関車の最大記録となっている。私も呉線の旅客用に最後の奮闘をしている姿を撮影したかったがかなわなかった。

C59の特長大型テンダーは国鉄の蒸気機関車の最大記録 九州鉄道記念館
天賞堂製C59127重油専燃機 テンダーが違う
 C59127も新型10系客車を従えて特急かもめ牽引に活躍できなかったものかと思ってしまう。

 1953年神戸にあった国鉄鷹取工場で宮原区のC59127が重油専燃式にテスト改造された。当時輸送力増強のため重油併燃装置の取り付けが、勾配線区のD51などに施行されかなりの成果を挙げていた。C59127は山陽本線糸崎~八本松間での連続上り勾配区間のテストで石炭炊きに比べて約20%の出力アップの高性能を達成し、東海道線電化前の大阪~米原間で北陸線急行ゆのくにを限定仕業でけん引した。東海道線全線電化後は盛岡機関区に移ったが1輌の試作のみだったのであまり使用されず1960年には廃車になっている。1953年3月に京都~博多間の特急かもめが設定され、最初の牽引機はC59だった。C59127も特急牽引に活躍できなかったものかと思ってしまう。

呉線で10系寝台客車を従え急行安芸牽引で最後の奮闘

現有19形式 ⑪ 日本の代表蒸気 D51

 D51は国鉄の機関車の中でも最も多い輌数が生産され、日本中で最後まで多数が活躍した機関車である。昭和40年代中頃、C62やC57 牽引の旅客列車を狙うファンからは犬のクソ扱いされるような存在でもあった。C62重連の急行ニセコを狙って遥々北海道まで行って、やっと来たと思ったら、どういうわけか重連の前がD51だった時は石を投げたくなったと言う友人もいた。機関車に石を投げてはいけません。

横浜機関区扇形機関庫の前で転車台に重油併燃装置付D51130
昭和45(1969)年12月29日
D51130は長岡から新鶴見に配属されてきた。高島線では唯一重油タンクをドームの後ろに付けて(テンダーについているタイプは他にもいた)いた。
鶴見川鉄橋手前で111系横須賀線とすれ違うD51130。当時横須賀線は東海道線の線路を走っていた。現在はD51の走っていた貨物線を走っている。鶴見駅を過ぎた辺りで新しくできた羽沢横浜国大方面に分岐する。 昭和45(1970)年1月6日
新小岩のスターD5121汽車会社製造山北に配属御殿場線で活躍。新鶴見に在籍したこともあった。 首都圏では私が撮影した唯一のナメクジだった。鋳鋼製テンダー台車や煙室前端が丸味をもっているのがわかる。Wシールドビームですが。昭和45(1970)年1月15日 新小岩機関区 
給炭完了で入換作業に向かうD5121 
昭和45(1970)年1月15日 新小岩機関区

 D51は1936~1945年にかけて1115輌が製造された。国鉄最初の箱型輪新(ボックス)動輪を採用しC57と並び近代国鉄形蒸気を確立させた貨物用機関車である。1936~1938年に製造された95輌は、煙突、給水温め器、砂箱、蒸気ドームを一体にカバーした通称ナメクジタイプである。(その内2輌はキャブまで延長通称スーパーナメクジ)丸味をもつ煙室前端、動力逆転機、鋳鋼製テンダー台車などの特徴がある。量産機は1937~1944年にかけて859輌が製造された。ドームは普通の一体型、給水温め器は煙突前方(おでこ)に横に、逆転機は一部を除いて手動式に戻った。テンダー台車も大部分は板台枠。1944~1945年は戦時設計で161輌。船底形テンダー、ドームの簡素化(蒲鉾形ドーム)、ディスク先従輪などの特徴がある。

D51って何輌あるんだっけと考えてしまうD511150 立派なカマボコドームだがこの写真では確認できない。昭和46年3月
Ⅾ511062は1000番台でも標準ドームだった。筑豊本線 昭和46年3月

 Ⅾ51は1115輌が国鉄に在籍していたが955~1000は欠番になっている。戦時型を1001から付番して区別している。そのため国鉄D51のラストナンバーは1161(日車製1967年東能代区で廃車)になる。筑豊本線ではD60 以外にも様々なD51 と出会うことができた。

筑豊本線のナメクジ D5142汽車会社製 東北時代は重油併燃装置付きだったが直方で取り外されたようだ。

D51の原設計の特徴、煙突、給水温め器、砂箱、蒸気ドームを一体カバーに収めた半流線形はとても斬新なデザインだと思う。しかし、後の基本設計では重量配分の改善と給水温め器の検修の理由で昭和13年度以降の新製より給水温め器を煙突の前に置くように変更された。給水温め器の位置は配管や点検・検修ののためには前デッキ上が望ましいわけだが、D51の前デッキには先台車のバネ装置があるため、煙突の前に置かざるを得なかったようである。よって日本の蒸気機関車の代表・代名詞デコイチはオデコに給水温め器を付けた姿が普通のデコイチということになっている。だから私は1次型をデゴイチ、標準型・戦時型をデコイチと呼んでいる。デゴイチ、デコイチどっちでもいいですね。

Ⅾ5110川崎車輌製 新製後鳥栖に配属終始九州の罐 直方区最終在籍蒸気の1輌 行橋市で保存されていたが、のちに直方汽車倶楽部が引き取り修復作業中 昭和46年3月
菜の花と団結D511155 川崎車輌製 昭和46年3月
ピースマークのD51906三菱重工業製後藤式集煙装置付きとD51614日本車両製鷹取式集煙装置付き 関西本線加太駅
D51906 集煙装置(この集煙装置は鷹取式に似ているが後藤式の後期型らしい)と重油タンクで目立たないがカマボコドーム。1000番台ではありませんが、D51はいろいろあります。準戦時形と言われる106輌 D51746・747 846~949号で量産形から戦時形に移行する過渡期のD51。D51906はデフに煙草のピースの鳩マークを付けた機関車。近畿圏の臨時旅客列車牽引によく駆り出されていたようだ。この時は青いスハ43系だったが、12系やオールグリーンの臨客も牽引している。

夜のD51

D51549 中央西線塩尻駅にて長野工場で新製 当然長工式集煙装置昭和45年篠ノ井線お別れ列車を牽引。 長野市に保存されている(長工式集煙装置は取り外し済)昭和46年3月
D51402 日車製長工式集煙装置付き中央西線塩尻駅にて  
昭和46年3月
キャブに乗せてもらって火室を撮影、夜だから周りは何だかわからない。
天賞堂製C622と並ぶ北海道形切り詰めデフのアダチ製D51 (本物とは逆にD61を一軸従台車化したもの)
カツミシュパーブラインのⅮ51を北海道タイプの切り詰めデフに交換。ロストワックス製パーツを付けた。

新鶴見所属横浜機関区のⅮ51

D51652日立製作所製 新製後山北区(山北区廃止後は国府津区)御殿場線で活躍していたらしい。その後新鶴見区所属昭和46(1970)年8月に廃車。神奈川県内で一生を過ごした機関車だった。昭和46(1970)年1月
給炭中のⅮ51451汽車会社製 昭島市昭和公園に保存されているが状態はあまりよくないらしい。 
昭和45(1969)年12月29日
横浜機関区給炭台前のドーム後ろの重油タンクⅮ51130とテンダーに重油タンクのⅮ51723日立製作所製
転車台上のⅮ51130日立製作所製 昭和46(1970)年1月

現有19形式 ⑩ 画期的大型貨物機の軸重軽減改造によって生まれたD60 

筑豊本線折尾~中間間を行く 門鉄デフD6065 日立製作所製D50191より改造 昭和46年3月 「昭和45年10月以降大分から直方に転出した罐だ」と O君が教えてくれました。

 D50の軸重軽減改造によって生まれたD60。大正生まれに鋳鋼製の2軸従台車は違和感がと言う人もいるが私は気にしない。本州では磐越東線で石灰石・セメント輸送に活躍していたが、すでに九州だけで見られる罐になっていた。

直方機関区のD6046川崎造船所(川崎車輌)の丸っこい砂箱 大きな給炭塔にびっくり 昭和46年3月
D60の重連石炭列車だと思ったら後ろはD51だった。ニセコのC62重連を狙っていたら前がD51だったほどはがっかりはしない。直方区のD6027日立製作所製D50237から改造 筑豊本線折中間~筑前垣生間 昭和46年3月
直方区のD6022 汽車会社製D5085から改造、角張った砂箱 D60らしい長大編成に見える 筑豊本線折尾~中間 昭和46年3月
菜の花の季節だった D6027は日立製作所製D50237から改造角張った砂箱? 昭和46年3月
D6027 菜の花ボケ過ぎ 昭和46年3月
小倉工式門デフD6067ブレブレ 大分運転所所属 筑豊本線遠賀川鉄橋付近 昭和46年3月
D6022 汽車会社製D5085より改造 角張った砂箱 筑豊本線遠賀川鉄橋 昭和46年3月
大分運転所から直方区に来たD6062これもブレブレ 日立製作所製D50229より改造、砂箱は角張っているように見える。
宮沢模型製D60 宮沢模型製D50より2軸従台車にして改造 角張った砂箱
宮沢模型製D6027 宮沢模型製日立製作所製D50237から2軸従台車にして改造 角張った砂箱
単機のD6028これは日車製Ⅾ50306より改造

https://c57115.hatenablog.com/

D60について詳しくはO君のブログ「転轍機」をご覧ください。

現有19形式 ⑨ 画期的大型貨物機 D50

宮沢模型製D50 砂箱は角ばってる 

 大正12年(1923)に国産標準機第1号の9600を上回る大型強力機の要請に応じて新製された。大きな砂箱、化粧煙突、前面デッキにの上にむき出しで乗った給水温め器が印象的な大正の名機。9600に比べて一まわり大きな動輪。従輪がついてがっちりと安定した感じを受ける。スピードアップのための動輪径の拡大と出力アップのための大型ボイラに1D1ミカド形(明治中期にアメリカから輸入された9700がミカド形の元)軸配置が採用された。新製時には9900形式と呼称されたが昭和3年の機関車称号規定の改正でD50形式と改められた。メーカーは川崎車両198輌、日立製作所80輌、汽車会社69輌、日本車両33輌の380輌で川崎車両の比率が高い。D50は貨物または勾配線用機であるため搭載する砂容量を増大し、1個にまとめたため大型化している。砂容量は9600の約三倍近くで、D51よりも多く搭載したようである。勾配または貨物用では砂の使用は粘着力増大の奥の手であり、また命綱となる場合もあったので機関士には搭載量が多いほうが好ましかったようである。超大型の缶上式で製造会社によって標準的な設計を変更しその社の特色を出している。汽車会社製の砂箱は角張っていて、川崎車輌製は丸味をもっている。いずれにしても「ごはん蒸し」の異名もあったそうだ。

どちらも宮沢模型製のⅮ50 門鉄デフ付きもあった。どちらも汽車会社製のような角張った砂箱だ。後に川崎車輌製の丸味をもった砂箱のタイプも発売されたらしい。

機関車軸配置

日本国鉄式通称国鉄テンダー機関車
1Cモーガル8620 C50 C56
1C1プレーリーC58
2C2ハドソンC60 C61 C62
2C1パシフィックC55 C57 C59
1Dコンソリデーション9600
1D1ミカドD50 D51 D61
1D2バークシャーD60 D61 D62

現有19形式 ⑧ 強力国産標準機 9600

直方機関区で入換作業中の79657 昭和46年3月

 9600は大正2年(1913)が製造初年で14年間に770輌が量産された。これは翌大正3年が製造初年の兄弟機8620の687輌を上回り、大正後期に申請されたC51の289輌、D50の380輌を凌駕している。これは国鉄の機関車最大新製輌数の記録1115輌のD51に次ぐ記録である。メーカー別の新製輌数は川崎造船所(後の川崎車両)が全体の約90%を占める689輌。残りが汽車会社69輌と小倉工場15輌で分担している。一方兄弟機の8620は汽車会社、日立製作所を中心としている。これは車両の新製において同じメーカーで毎年同一輌数に平準化して生産するのが品質の確保と新製コストの低減を計るために効果的であるという考えに基づいている。現有19形式の中でも最古の形式でしぶとく残った。

横浜新港埠頭の赤レンガ倉庫前の9600 私が高校生の頃 大正3年の写真 ウソそれじゃあ還暦のじいさんだろうって言っていた昭和47年頃 本当に還暦過ぎのじいさんになってこの写真を見るとは思わなかった。ネジ式連結器のバッファーは鋳物のダミーだった。本物の9600(形式9600のトップナンバー)は川崎造船所製で軍供出で中国大陸に渡っている。
ナンバープレートは形式入りの59631になっているがこれもウソ。同じ機関車のナンバープレートを取り換えているのを見てしまった。

 当時の新港埠頭(赤レンガ倉庫周辺)は線路だらけ。架線はなくDD13が走っているのは見たことがある。入り口は万国橋しかなく、赤レンガ倉庫を撮影したいときは橋にある詰め所で住所氏名を記入して撮影の許可をもらって入った。埠頭内は外国の船員が歩いているだけで赤レンガ倉庫は中国産のお茶の匂いがすごかった。9600は映画撮影のためのものだったが、どれくらいお金をかけたのだろう。

D51がいなくなった横浜機関区の扇形機関庫に長野方面(たぶん)から回送されて来たキューロク。これが9600に化ける。ナンバーは足回りの刻印でわかったがその写真が見つからない。
青梅鉄道公園に保存されている9608
天賞堂製9600
立野スイッチバックを行く39680
立野にて 9600が客車を牽いて来た。門鉄デフ、ナンバーは79602 熊本区の所属北海道に渡り、追分機関区の火事で焼けてしまったらしい。昭和46年3月
立野にて昭和46年3月
立野にて昭和46年3月

現有19形式 ⑦ C50  準近代化機

 8620形の改良増備という形で昭和4年に登場した。昭和8年までの5年間に158輌が量産された。汽車会社40輌、川崎車輌31輌、日立製作所30輌、三菱重工29輌、日本車輛24輌と機関車メーカーの全てがほぼ均等に分担している。

亀山機関区で入換作業中のC5075 煙室扉はトラ塗り警戒塗装 昭和46年3月直後に廃車 まったく縁のない東京都足立区に保存されているらしい。
トビー製C50  一応亀山機関区所属にしてみました。
トビー製未塗装のC50

 C50は8620より多少近代的なスタイルになったと言われるがどちらが近代的に見えるかと聞かれても外観からは大した違いはわからず困る。終始地味な存在だったように感じる。関東では小山区のC50。九州行橋区の千鳥マーク入り門鉄デフのC5058などが有名だったが、私が九州にかけつけた時にはすでに廃車だった。

トビー製の8620とC50  どちらが近代的と聞かれても。
C50154 これも記録も記憶もないが亀山機関区のようだ。 本機は小山➡糸崎➡亀山と巡り廃車後は亀山市に保存されていたらしい。
亀山機関区で元気に入換作業中 煙室扉はトラ塗り警戒塗装

蒸気機関車の形式称号

 蒸気機関車の形式称号は1928年(昭和3年)に当時の鉄道省が制定したもので、アルファベットと数字の組み合わせで付けている。その直前までは1909年(明治42年)に制定された数字のみを使用して表記する形式称号規程が使用されていた。8620や9600のように昭和3年以降も旧表記をそのまま使用した機関車もあるし、18900形➡C51、9900形➡D50のように新形式称号に変わった機関車もある。57127例にすると最初のアルファベットは動軸(動輪)数を表している。但し先輪・従輪やテンダー(炭水車)の台車は含まない。
B➡同軸数2
C➡同軸数3
D➡同軸数4
E➡同軸数5
となる。
次の二桁が機関車の種類を表す形式番号
十の位の数が1~4はタンク機関車
十の位の数が5~9はテンダー機関車
※タンク機関車は機関車に燃料と水を搭載する機関車。一般に機関車の中央のボイラ左右に水のタンク、運転席後方に燃料(石炭)と水を積載している。
※テンダー機関車は機関車とは別に燃料と水を搭載する炭水車(テンダー)を連結する機関車。テンダーは、内部では上下に仕切られており、下部に水、上部に燃料(石炭)を積載している。
 その次の数字は車両番号、同一形式内の製造番号。基本的には1から順に番号が振れれるわけだが、実際には製造会社に番号を指定して発注するため、複数の製造会社に発注されている場合は必ずしも竣工順に番号が振られているとは限らない。一番大きい番号はD51で111〇まである。
というわけでC57127は動軸数3軸で炭水車(テンダー)付きの蒸気機関車で127番目に製造された車両であるということになる。
C1196は動軸数3軸のタンク機関車で96番目に製造された車両であるということになる。

C50は昭和4年に登場した。昭和3年に制定した新形式称号規程でC型の5(テンダー機関車)のトップナンバーでC50としたのかと思っていた。

 考えてみると18900形と呼ばれていたC51、9900形と呼ばれたD50はすで登場していたし昭和3年に登場したC53はフライングで新形式称号規程をつかっていたようだ。タンク機は昭和5年登場のC10が最初だ。それ以前の国産タンク機は大正3年(1914)に登場した急勾配専用の4110なので、C10は21年ぶりというか実質的な意味で国産初のタンク機第1号になる。ラストは当然E10ですね。でも、E型のトップでもあります。

大正3年(1914)に登場した急勾配専用の4110 マイクロキャストミズノ製
青梅鉄道公園に保存されているE102 保存機はこれのみ、当時すでにE101は1959年に廃車解体済みだったらしい。汽車会社製造 奥羽本線板谷峠越えの4110形の代替え機として使用、庭坂区➡人吉区➡金沢区➡米原区と渡り歩いている。E10の全5輌は同じ足取りをたどっている。

現有19形式 ⑥ 8620 快速国産標準機

飯山線唯一の蒸気牽引旅客列車222ㇾ 昭和46年3月

 
大正3年(1914)~昭和5年(1930)の17年間に687輌が量産された。9600(貨物用)4110(急勾配用)といった一連の大正時代の国産標準機で急行旅客用とされていた。前記のC11、C57などの形式称号は1928年(昭和3年)に当時の鉄道省が制定したもので、その直前までは1909年(明治42年)に制定された数字のみを使用して表記する形式称号規程が使用されていた。8620や9600のように昭和3年以降も旧表記をそのまま使用した機関車もあるし、18900形➡C51、9900形➡D50のように新形式称号に変わった機関車もある。

五能線に8620(ハチロク)が走っていた頃には無かったウェスパ椿山駅に保存されている78653。日立製作所製造の137輌の一つ。

 8620は東北の五能線・花輪線や九州の松浦線が有名だった。どちらも横浜の中学生が撮影に行くには遠過ぎた。何年か前、憧れの五能線を旅してみたが不老不死温泉の最寄り駅ウェスパ椿山の駅前に日立製作所製78653が保存されていた。動態保存の計画も有るように聞いていたがどうなってしまったのか。数か月後、雪のある季節にウェスパ椿山を訪ねてみたら78653は青いシートに包まれていた。大切に保存されているようで安心したが五能線を混合列車を牽引して走る姿(ありえないか)を見てみたいと思った。因みにこの78653は五能線を走っていた機関車ではなく、日立製作所所縁の茨城県常陸大子区や平区に在籍していて水戸市に保存されていたものを譲り受けたらしい。

ウェスパ椿山に保存されている78653。日立製作所製造の137輌の一つ。蒸気ドームには大きく日立の文字が
トビー製8620デフ付き これは金の箱に入った後期のモデル 後期になってデフ付きとデフなしを選べるようになった。

 五能線は「リゾートしらかみ」というリゾート列車が走り、大人の休日倶楽部パスの時期はなかなか予約が取れない。花輪線には「十和田八幡平四季彩ライン」という二時間ドラマなら絶対殺人事件が起こりそうな愛称がついている。三重連をめあてにファンが押し寄せた龍ヶ森駅は今はなく。安比高原駅となっている。

花輪線のキハ10系
五能線 リゾートしらかみ青池編成HB-E300系
普通のキハ40系の普通列車 これも間もなく新型電気式気動車GV -E 400系に置き換えられるらしい。五能線にはキハ40系のくまげら編成というのもある。
五能線 リゾートしらかみ橅(ブナ)編成HB-E300系 深浦周辺
トビー製8620デフなし これは緑の箱に入った前期のモデル 
青梅鉄道公園に保存されている8620 要するにトップナンバー
飯山線替佐駅付近を走る、飯山線唯一の蒸気牽引旅客列車222ㇾ 昭和46年3月
どちらもトビー製の8620とC50

次回はC50かな

現有19形式 ⑤ C55近代化標準機の先駆

 C51・C54の改良型として、1935年~1937年にかけて合計62輌が製造された旅客用機関車。C54では蒸気ドームと砂箱が以前のC51や8620に比べると近寄ってきている(蒸気ドームが前)がC55から一体となる。蒸気ドームと砂箱を一体にした様式はこのC55に始まった。C55では砂箱が前になっているがその理由はC11の1次型から2時型の変更理由と同じようだ。砂箱の位置は砂撒き管(元栓)の位置でわかる。C55の2次型は流線形として1935年36年に21輌製造された。流線形と言えばC53も有名だが国鉄で最初から流線形蒸気として作られたのはC55のみである。C55の流線形は90km/h以下の速度では空気抵抗減少の効果はほとんどなく、本体がカバーに隠されているため点検装備に要する手間が大変ということで、流線形だった20~40の21輌は戦後一般構造に改造復元された。キャブやテンダー等に名残がみられる。

肥薩線吉松駅にてC5552 無骨と言うかあまりスマートではない門鉄デフ 昭和46年3月
C55天賞堂製 C57との見分け方は動輪がスポークであることドームの形状(C55は後ろ側もほぼ垂直になっている)
C57の一体型ドームは後ろ側が若干斜めになっている C55以降は砂箱(サンドボックス)は前方になってる。
蒸気ドームと砂箱が近くなっているC54(宮沢模型製)とC55  C54は蒸気ドームが前、砂箱が後ろ 一体型になったC55は砂箱が前にあることが砂撒き管(元栓)の位置でわかる。
10系客車を牽くC55 

 魅力的なC55であったが九州の肥薩線も北海道の宗谷本線も横浜の中学生が撮影に行くには遠すぎた。

C57127のこと

山陰線旧保津峡駅を出発する梅小路機関区所属C57127牽引の旅客列車 昭和45年7月

 今回中学生時代(50年前ですね)C57の写真を整理していたら、不思議なことに気づきました。昭和45年の夏、保津峡で出会って撮影したC57127が、昭和46年3月に九州、日豊本線で撮影した写真にも登場しているのです。

昭和46年3月に九州、日豊本線で再び出会った宮崎機関区所属C57127

 気になってC57127をググってみると、確かに「昭和46年春の山陰本線京都口のDL化で梅小路機関区からC57127が宮崎機関区に転属してきた」旨を記載してあるブログを見つけました。ここまでは特にそれほどすごいことではないのですが、なんと、なんとそのブログの主が私の大学時代の友人、大分在住のO君だったのです。O君とは大学時代、授業をサボって毎日のように麻雀をしていた仲間です。彼が筋金入りの鉄ちゃんであることは知っていましたが、毎日顔を合わせてもC57の話をすることはまったくありませんでした。中学・高校の時に同じ機関車を追いかけていたことを全く知らず、数年後大学4年間毎日のようにつるんで過ごし、四十余年後にそれに気づくとは。O君の家には学生時代は実家に彼が結婚してからも新居に泊めてもらい城下ガレイ等をごちそうになったことがあります。これをネタにまた、関サバあたりをごちそうになりに大分まで行きたくなりました。彼のブログによるとC57127は宮崎機関区の在籍は短く、47年10月時点で鹿児島機関区の配置になったようです。

現有19形式 ④ C57 優美の象徴機

梅小路機関区にてC5715(一次型)  DF50とともに 梅小路蒸気機関車館になる以前 昭和45年7月

 C55の改良型として1937年から製造第一次型は138輌(1~138)。第二次型は31輌(139~169)テンダー台車が鋳鋼製から板台枠に変わった。第三次型は戦後の1946年に20輌(170~189)製造。先輪がディスク輪心に、放熱菅がランニングボードの下に移動、ボイラー上、ドームの前にあった逆止弁が右横に下りた。第四次型は1946・1947年に12輌(190~201)製造。ボイラー内径が太く、密閉キャブ、テンダーは船底形・鋳鋼台車、動力逆転機装備、デフは角を落としたタイプ。1次型と並べるとほぼ別形式のよう。

カツミシュパーブラインの未塗装の4次型と塗装済1次型 模型では4次型の方が先に発売されたようだ。

 久保田博氏の「懐想の蒸気機関車」ではC57を優美の象徴機と紹介している。現役末期の頃はよく「貴婦人」と呼ばれていたが、私は恥ずかしくてそんな風に呼んだことはない。まあ、優美。モダンでスマート。大根足とは言わないがちょっとマッチョな足回り。客車を牽いて走る姿がカッコいいです。

3次型C57187 日豊線にて 昭和46年3月
トンネルから出てきたのは4次型のC57192 日豊線にて 昭和46年3月
C571  もちろん1次型オリジナルの12系客車の山口号 
カツミシュパーブラインの1次型に同じくカツミの12系客車を牽かせて
日豊線青井岳にて門鉄デフのC57
客車牽引が様になる青井岳を行く門鉄デフC5736(たぶん)
関西本線亀山機関区で出会った集煙装置・重油タンク付きのC57148 2次型のはずなのでテンダー台車は板台枠のはずなのに鋳鋼製。よくあることでしょうか。
 C57も延べ50輌近くが重油併燃装置を付けた、理由は石炭事情の悪化や煤煙防止などである。しかしはじめは賞用されても、転属などに起因し装置の活用を中止し、竜頭蛇尾に終わったものが多い。国鉄の得意わざでもある。(臼井茂信著 機関車の系譜図4)

 集煙装置や重油タンクは優美なC57の形態を崩すと言って嫌う人も多いと思いますが、私は結構好きです。カメラだとニコンFのアイレベル付きは美しいがフォトミックFTNファインダーにソフトシャッターレリーズAR-1を付けたごちゃごちゃしたのも好きというのと似ています。(わかるかな)

総武線最後のC57105 新小岩機関区にて 昭和45年頃

現有19形式 ③C56

どこだか忘れました。九州です。C56の特徴あるテンダーがわかります。※C56のテンダーより貨車ツム1000形ツム4024に目が行ってしまう友人がいました。この貨車も昭和60年(1985)形式消滅です。

 C12をテンダー機にした形式で、寸法・構造とも共通点が多い簡易線向けのためバック運転を重視して、その際の見通しをよくするためにテンダーが独特の形態をしている。1935年~1939年まで160輌が製造されたが、第二次世界大戦中に最初の90輌が軍用として外地に転出した。戦場にかける橋のタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で活躍した2輌が帰還している。1輌は九段の靖国神社遊就館に静態保存されているC5631。もう1輌は大井川鉄道のきかんしゃトーマスのジェームズ号として運転されたC5644である。国内では91号機がファーストナンバーになる。これは九州の吉松機関区に在籍していた。

 飯山線の替佐駅を出発するC56 111
上桑名川で追い越し撮影したC56111 昭和46年3月
ペンタックスSPに買ったばかりのコムラー925の250㎜相当で撮影。 

泰緬鉄道のこと

 泰緬鉄道と言えばクワイ河や「戦場にかける橋」を思い浮かべますが、映画はフィクションのようです。難工事で現地で強制徴用された労働者や捕虜の連合軍兵士が劣悪な環境と労働条件の中たくさん亡くなったのは事実ですが、イギリス軍の将校が指揮をして橋を完成させるなんてことはありえない事です。ビルマを植民地にしていたイギリスがかつてこの鉄道を計画し、無理だとあきらめた工事を日本軍が完成させたようです。建設の主体は陸軍の鉄道連隊。編成地は千葉県津田沼にありました。演習線が津田沼~松戸にあり戦後京成に譲られ新京成線になっています。新京成線はくねくね曲がっている路線といわれますが、演習線の頃はもっとくねくね迂回するようなルートだったようです。それは演習線のためある程度の距離を確保するためにくねくね迂回するようなルートにしたようです。鉄道連隊の作業場は現在千葉市の千葉公園になっています。戦場にかける橋を造る演習をしたようなコンクリート製の橋脚も残っている。いくつかの連隊が千葉・津田沼からビルマ・バンコクに泰緬鉄道建設のため派遣されていました。

中村精密製C56 小海線の高原列車のイメージ
こちらは鐡道模型社のC56

 C56といえば小海線のキャベツ満載の野菜列車や高原列車、大糸線が人気がありましたが、私の印象に残っているのは母の実家がある石川県輪島市(当時は輪島市ではありませんでした)へ行くときの七尾線の赤いナンバープレートのC56です。

現有19形式 ②C12

C12牽引の高森線混合列車

 簡易線用に設計された小型軽量の近代型タンク機関車。というのがC12です。鉄道ファン1969 12月増刊号によるとC11を一まわり小型にした機関車。C11より運転速度が低いためデフレクターはつけていないが、後年つけた機関車もある。とありました。でも、高森線でも足尾線でも明知線でもデフレクター付きのC12を見たことはありませんでした。デフレクターの付いていないタンク機関車はC12、付いているのはC11と思い込んでいましたが、見つけてしまいました。

 木曽福島で見つけたデフレクター付きのC12199 転車台から入れ替え作業に
残念ながら煙室戸はトラ塗。当時の中学校写真部の部長と副部長で記念撮影
中村精密のC12 デフレクターを付けたくなります。

 C12は1932年~1947年にかけて293輌製造され、長期にわたったにもかかわらず、形態的な変化があまりないのがC11と違うところ。でも、模型の中では多少の形態変化がありました。

未塗装の中村精密C12 前が後期 後ろが前期

 我が家に何輌か在籍している中村精密のC12を比べてみると、砂撒き管の取り回しが違ったり水タンクの蓋等がディティールアップされたりしています。箱も後期のものはC11と同じ立派なものです。前期はオレンジ色の小さな箱ですが。

デフレクターを付つけて本線を客車牽引する姿を見たくなりました。

 このC12にテンダー(炭水車)を付けた機関車にしたのがC56です。次はC56ですかね。

木曽福島にもいました。これもトラ塗ですけど

現有19形式 ① C11 タンク機の近代化版

 私が中学生時代のバイブル、鉄道ファン臨時増刊号の蒸気機関車撮影地ガイド 
昭和44年12月増刊号と昭和46年1月増刊号

 私が中学生の頃、現有19形式という言葉がありました。昭和44年の10月ダイヤ改正時点で国鉄の蒸気機関車が19形式残っていたのです。残念ながら次の45年10月ダイヤ改正時点では、C59 C60が姿を消し、17形式になってしまうのですが。

 鉄道模型に興味をもった頃、いつか現有19形式を全部揃えてみたいなと思ったものです。コロナ騒動の超自粛ムードの中、STAYHOMEでかつて収集した鉄道模型を整理分類してみようと思いました。

陽光浴びたアドリアチック C11

左がトビー製C11 右が中村精密性C11 トビーは2次形で中村精密は3次形。水タンクの大きさと炭庫の上辺が異なります。

  どちらもC11ですが、若干違いがあります。C11は4種に大別され、第1次形23両(1~23)蒸気ドームが砂箱の前にある。第2次形以降で位置を逆にしたのは、急停車時にボイラー水が蒸気ドームに侵入するのを防止するためらしい。新しい形式にも踏襲されている。第2次形117両(24~140)第3次形106両(141~246)水タンクが大きくなり炭庫上辺が直線。第4次形は戦時設計機で角型ドーム。戦後は元に戻したようです。新橋のSL広場のC11は角型ドームの4次形ですね。

 どちらもトビー製の2次形。トビー製はシリンダーブロックも真鍮製。中村精密はダイキャスト。真鍮製の方が高級感があり塗りたくない感じです。
中村精密のC11は立派な箱に入ってました。
棚に飾っておいたら埃だらけになってましたが、大井川鉄道のC11も3次形
青梅鉄道公園の1号機は当然1次形。この写真では蒸気ドームと砂箱の位置が確認できませんね。
昭和45年7月 保津峡へ向かう山陰本線車窓から見えた梅小路機関区 一番左が梅小路機関区のC1196 手前は休車中の28698

 現有19形式についてまとめるために参考にしたのは、鉄道ファン臨時増刊号の蒸気機関車撮影地ガイド 昭和44年12月増刊号と昭和46年1月増刊号以外にも次のような書籍を参考にしています。

久保田 博 著 懐想の蒸気機関車
機関車の系譜図1~4(主に4ですね) 臼井茂信著
蒸気機関車スタイルブックと鉄道模型趣味別冊蒸気機関車スタイルブックどちらも 機芸出版社
その他いろいろ。
鉄道模型については 松本吉之著 鉄道模型考古学 ネコ・パブリッシング
私の秘密基地の模型棚

麺を啜る

 半年以上投稿をサボってましたが、昨年の10月に喉頭癌が再発し、喉頭全摘手術を受けました。当然声は出なくなるんですが、それ以外にもいろいろ不都合が出てきます。病気の話で恐縮ですが喉頭全摘すると気管は首に穴をあけて呼吸します。要するに気管は口とも鼻ともつながってないのです。それでどんな不都合があるかというと、麺がすすれない。麺をフーフー吹けない。クンクンとにおいが嗅げない。あと、なんでだか説明できませんが熱いものが口の中でいつまでも熱い。(気管につながってないから熱の逃げ場所がないのかな)他にもあるのですがとりあえず今まで好きだった細麺のラーメンをツルツル啜ることができなくなったのが悲しいです。

支那そばや鶴ヶ峰 塩ラーメン

今までは何も意識せず、細麺のラーメンをツルツル啜ってましたがこれができないと、ラーメンって食べにくい。まして、フーフーできなくて熱いのが苦手となるとなおさら。

かつてよく食べたのは故佐野実氏系のラーメン。ツルツルとのど越しの良い細麺が好きでした。支那そばや鶴ヶ峰店のマスターは佐野氏の下で仕事をしていて独立したそうですが、佐野氏はテレビのイメージ「ラーメンの鬼」とは違って面倒見の良い優しい方だったと言ってました。支那そばやは戸塚に佐野氏の奥さんがやってる本店があるのですが、仕入れも仕込みも全く別で各店自由にやっているとのことでした。横浜では支那そばや鶴ヶ峰店以外にも、反町のShiNaChiku亭やラーメン星印が佐野氏の下で仕事をしていた方の店です。

支那そばや鶴ヶ峰店 しょう油ラーメン
ラーメン星印 特製醤油らぁ麺

 ラーメン星印は佐野氏「数を売るんじゃない 味を売れ!」が掲げられ矢沢永吉の曲が流れる店です。マスターは新横浜のラーメン博物館の支那そばやの店長をしていたそうです。

 ShiNaChiku亭は

特塩ラーメンが好みです。どちらもワンタンがおいしいです。醤油より塩のほうが麺が細い感じがしたのですが、醤油は20番、塩は22番とのことでした。

ShiNaChiku亭 塩特ラーメン

SLばんえつ物語

 久しぶりに青春18きっぷでSLばんえつ物語を追いかけました。

喜多方に近い濁川橋梁 上り列車煙少ない。

「東京には空がない」と思えるくらいきれいな空、きれいな雲でした。

会津若松を出発する下り列車。やっぱり煙少ない。

 久しぶりに見るC57180はきれいに磨かれていました。この煙の少なさは燃料とも関係あるんですかね。現役時代とは違いますね。

 保津峡を出発するC57127牽引の京都行上り列車。煙の量が違いますね。昭和45年

 幹線・亜幹線の旅客列車で様になるのはC57以上ですね。改造された12系もいいですが、SLやまぐちが始まった頃の国鉄時代と同じ塗装の12系も見たいです。

オリジナル12系のSLやまぐち

一生勉強 一生青春

 若いころ丼といえばカツ丼か天丼。親子丼という選択肢は無かった。カツ丼も天丼もカロリーや血糖値のことを考えると問題があるので牛丼が浮上してくる。

上野、「牛の力」の牛力丼白(牛丼+温玉+バター)

 牛丼もいいけど最近気になっているのが豚丼。BSE問題のころどこの牛丼屋も出していた豚丼ではなく、十勝地方・帯広市発祥と言われているタレの網焼き豚丼。最近はこの豚丼にはまっている。

上野 十勝ダイニング豚ック ロースかバラを選べる。写真はロースとバラのハーフ&ハーフ。右の壺はタレ。増量し放題。
お茶の水「豚野郎」の豚丼。本当に炭火で焼いていてこの時期めちゃくちゃ暑い。
神保町 豚大学神保町校舎 豚丼中

 この豚大学は、大・中・小とあり大の上に修士課程・博士課程がある。大を卒業(クリアー)しないと修士課程・博士課程には進めないシステム。まあ、当然ですね。カツテなら当然大なんだけど自分の体調も考え中にしました。それでも結構満腹。博士課程ってどんな奴がいくんだ。当分中卒でいいかな。

 そう思っていたんだけど、先日新宿のカメラ屋さんを巡っていたら豚大学新宿校舎を発見。このブログに投稿してくれる中学校の同級生F君は昔(学生時代だからね)T大の博士課程に通っていたことを思い出した。自分はまだ中卒のまま。あいだみつをの「一生勉強 一生青春」の言葉に背中を押され「豚丼大」と言ってしまった。どうにか大卒クリアー。でも修士課程・博士課程は目指さないことにした。東大工学博士になったF君。君はえらい。

豚大学新宿校舎 豚丼大

昭和は遠くなりにけり

 年代不詳のネガを整理していたら出てきた機関車。私が高校生になった昭和46年頃、D51791の高島線さよなら運転が終わってからの撮影だと思われる。当時鶴見線界隈の工場には現役の蒸気機関車がまだ居るというたれ込みがあって、ペンタックスSPを持って鶴見線に乗った記憶がある。浅野駅付近の塀の隙間から機関車が見えたときはうれしかった。

鶴見線浅野駅近くの日本鋼管(今の社名はなんだっけ)で働いていた機関車

 工場の守衛のおじさんに許可をもらい、構内に侵入。C12よりまだ小さいタンク機関車。国鉄型の機関車にしか興味がなかった私だったが高島線のD51が姿を消しても横浜市内にまだ蒸気機関車が働いていることがうれしかった。

令和開幕 私がヤフオクに出品しているC12キット組立品です。誰か買ってください。

 令和となり改めて鶴見線に乗ってみることにした。鶴見から一つ目の「国道」ここは横浜の寿司屋さんが買い出しに来る生麦魚河岸の最寄り駅。国道一号線(現在は国道15号線)と鶴見線の交差するところだから「国道」わかりやすいというか安直。横浜に住んでる人には常識なんだけどこれが一国(第一京浜国道)旧国道1号線で現在は国道15号。旧国道1号線のバイパスとして作られたのが二国(第二京浜国道)が現在は国道1号線。フランク永井の「夜霧の第二国道」はここのこと。二国の方が一国よりも景観が良いというかお金がかかっている感じがしますが、二国は1940(昭和15)に開催予定だった幻の東京オリンピックのマラソンコースにする計画があったらしい。鶴見区の響橋(めがね橋)が折り返し地点。響橋といえば手塚治虫の「バンパイヤ」の最初のシーンにも出てくる。二国のバイパスが第三京浜。

 国道は通り過ぎて、「弁天橋」はテレビでやってるダッシュ海岸の最寄り駅。実際は旭硝子(今の社名はAGCだっけ)の私有地なので許可がなければ入れない。

 そして浅野。なんと無人駅になってました。「海芝浦」へ行く支線と「扇町」方面と分かれるのでホームが三角になっていてきれいな花壇が印象的だったんだけど、夏草や兵どもが・・って感じでした。浅野はこの辺り、京浜工業地帯を埋め立てた浅野財閥、浅野セメント、浅野学園の浅野総一郎に因んだ名前ですね。

調べたら日本鋼管は川崎製鉄と統合JFEスチールになっていた。浅野駅からの専用線も無くなっていた。

 次は「安善」。昔、工場地帯だから安全を願っての駅名かと思っていたけど、安田財閥の安田善次郎、略して「安善」らしい。次が「浜川崎」。南武線に乗り換えることができる。でも南武線の「浜川崎」と鶴見線の「浜川崎」は別の駅。これは国鉄に編入される前は南武線は南武鉄道、鶴見線は鶴見臨港鉄道と別の私鉄だったからです。

浜川崎の次は昭和

昭和まで遠かったですね。やっと昭和です。

なんか昭和の駅の佇まい。

「昭和」の駅名の由来は、改札を出るとすぐに門がある昭和電工。その元になった昭和肥料という会社があったかららしい。

昭和は遠くなりにけり

C12の思い出

高森駅を出発する逆行C12牽引の混合列車

 熊本地震のニュースで南阿蘇鉄道が全線不通と聞いたが、「南阿蘇鉄道ってどこだ?」って感じでした。調べてみると50年前、中学生の頃に撮影に行った国鉄高森線のこと。

立野を出発するC12牽引の混合列車。これも逆行何でだろう?

 熊本地震からの災害復旧工事はすすんでいるのかな。この鉄橋も被害を受けたらしい。立野~高森が復旧したら大人の休日倶楽部の割引でまた行ってみたい。50年って意外と短い。

模型だとこんな感じかな。中村精密のC12、貨車はエンドウ、オハ61はカツミ
中央西線木曽福島にて虎塗りのC12199 当時の中学校写真部の部長・副部長これも50年前

相鉄12000系

高島貨物線をDE10に牽引されて回送中の12000系(令和元年5月7日)

 昨年、Aiニッコール105mm F2.5の絞り羽根に油がにじみ、粘っていたので、銀座のサービスセンターで、F&ニッコール限定メンテナンスを利用して修理してみた。約2ヶ月預けて、修理代金¥8600+税。納品書の最後にいつものように「この製品は補修用部品の在庫払底の為、再事故の責任は負いかねますので、ご了承ください。」とある。自分では気が付かなかった微細なゴミ、キズ、カビ、よごれ等も指摘してくれる。このレンズも前玉、後玉に微細なキズがあることが指摘されたが自分では見てもよく分からない。修理代金¥8600+税が安いのか高いのかはこのレンズの今後の働きによりますかね。ということで晴れた連休明け、Aiニッコール105mm F2.5をDfに付けて、高島水際線公園に行ってみると、平日なのにいつもと違う雰囲気。歩道橋上に老若男子(女性はいなかった)20名以上。何が来るんだ。期待しちゃいました。

タキ1000を従えてEF210-146が根岸へ ニコンDf Aiニッコール105mm F2.5

「吹田のカマ(機関車)だ。」と言ってました。私の世代では吹田と言えば「城東貨物線」「本州最後のD52」ってイメージです。遠くからご苦労様です。でも、これが本命じゃないみたい。

タキ1000を従えてEF210-117が根岸から ニコンDf  Aiニッコール105mm F2.5

 EF210-117 時間を聞きたくなるような番号だが、最近の若い人は117で時報を聞けることを知らない人が多いらしい。どうでもいいですね。これも本命ではないですね。

タキ1000を牽引するEH200-10ブルーサンダー ニコンDf  Aiニッコール105mm F2.5
根岸へ向かうブルーサンダー

 周囲の反応は薄い。思い切って恥ずかしながら聞いてみた。「みんな何を待ってるんですか?」学生風の若者が相鉄の新型12000系が金沢区の東急車輌から回送されてくることを教えてくれた。12000系は20000系に似ているが(色は一緒)相鉄がJRへ乗り入れるために新製した電車で、全くの新型車というわけでなくJRへ乗り入れるのに都合がよいように、JRで活躍中のE233系をベースにしているらしい。私の実家は羽沢横浜国大駅(令和元年11月開業とされている)より徒歩10分程度の位置なので利用する機会も多いかもしれない。

真打ち登場 DE10 1662に牽引されて登場した相鉄1200系
12102この編成に乗ったときに今日のことを思い出すかな。
Aiニッコール105mm F2.5は問題なしかな。

SLやまぐち

撮影年月不明(たぶん1980年代前半)    ニコンF2AS Aiニッコール85mmたぶん

 古いネガ(古いと言っても学生時代ではなく、就職してからなので40年くらい前かな、十分古いか?)を整理していたら、これはSLやまぐち。集煙装置付きのC571。ノーマルの12系。国鉄時代ですね。

当時はまだ小郡駅でしたね。実家が湯田温泉の近くにある大学時代の友人と小郡で待ち合わせて、彼の車で津和野方面に向かったような気がします。
よく見ると踏み切りで待つ車はコスモAP。そんな時代ですね。

 この集煙装置付きのC571。集煙装置は形態を崩すと言って嫌う人もいるが、私は嫌いじゃない。と言うか結構好き。ニコンFも「アイレベルファインダーじゃなくちゃFじゃない。」とか言う人もいますね。シンプルなのも美しいですが、AR-1付きフォトミックFTNもかっこいいですね。ごちゃごちゃいろいろ付いているのも好きなんです。高島貨物線でも重油タンクがボイラーの上にのっていたD51130が好きでした。中学生の時、九州撮影旅行の帰りに寄った、関西本線亀山機関区で集煙装置+重油タンクのC57を車窓から見て、走っている写真を撮りたかった。

集煙装置+重油タンクのC5726 亀山機関区にて
山陰本線旧保津峡駅を出発する客車列車  昭和45年 夏
ニコンFフォトミックFTN AR-1付き ごちゃごちゃしているところが集煙装置+重油タンク付きのC57みたいな感じ。

やっぱりニコンF

ニコンF725~ ニッコールSC 50mm F1.4   ニコンF647~ ニッコールS 50mm F1.4

 ニコンFは1959年(昭和34)6月に発売され、同年9月アサヒカメラ ニューフェース診断室で、頂上がとがったプリズム部が、「全面だけ白いのは亡者のマークの三角布のようで縁起が良くない」とあるドクターに評されています。(誰かは分かっていますが)亡者の三角布というのは亡者頭巾とか三角頭巾と呼ばれるもので、確かに昔は喜劇やコントでも、白い着物に白い三角を着けていれば幽霊だと分かったものですね。最近の葬式ではあまり目にしませんが、専門家?に聞くと(私の同級生には様々な専門家?がいます)宗派にもよるが今も紙の六文銭(三途の川の渡し賃)などとセットで有るようです。でも、着けずに棺に入れる場合が多いらしいです。私も終活として持っているカメラや鉄道模型、写真をきちんと整理したくてこのブログを始めたわけですが、ここで私は棺に入るとき三角頭巾は着けないことを遺言として残しておきたいと思います。だって白い着物に白い三角だと私たちの世代では喜劇に出てくる幽霊みたいで、見たとたん吹き出す人がいるのではないかと心配だからです。まあ、知性で売っていたアサヒカメラ ニューフェース診断室で「縁起がよくない」といった知性を疑わせるような言葉が見受けられるのは遺憾でありますね。

ブラックボディーにしておけば、そんなこと言われないですね
ニコンFとニコンF2のアイレベルどちらが縁起が悪いでしょう?

 直線的な三角にFの文字が有るFと曲線的でFの文字が無いF2では、私はF2の方が亡者の三角頭巾のようなイメージがあって縁起が悪いような気がするのですがいかがでしょう。知性のない内容で申し訳ありません。

 ニコンF2は1971年(昭和46)に発売され、同年12月のアサヒカメラ ニューフェース診断室で取り上げられているが、その際、縁起が悪いかどうかは記されていない。もっとも取り上げられたのは測光回路の電源電池やスイッチ機構をボディー側に移した、ニコンF2フォトミックでアイレベルファインダーは出てこない。あっ、F2のフォトミックファインダーは黒だけですね。

令和ですが昭和の一眼レフの話

カメヤ(押上)のクリームパン
ニコンF ニッコールS 35mm F2.8 とニコンF2 ニッコールNC 24mm F2.8

 ニコンFは1959(昭和34)年6月生まれ、今年還暦ですね。Fについてはたくさんの方が研究されていて今更なんですが、「これはあくまでも個人の感想です」といったレベルです。私がFに興味をもったのは1980(昭和55)年辺りからですからすでに発売から20年以上たったカメラでした。中学校の写真部時代「セルフタイマーのレバーが仏壇の金具みたいだ」「シャッターボタンの位置が人間工学的じゃない」などと散々バカにしていたのですが、これは当時のペンタックス党の党首として絞り込み平均測光、ネジマウントのペンタックスを擁護するための発言でした。でも、今でもペンタックスSPのデザインはすばらしいと思っています。私が言っていたシャッターボタンの位置やセルフタイマーのレバー(ニューF・F2では樹脂製のカバーが付いた)の件はF2では解消されていましたが、何故、古いFに惹かれたのでしょう。自分でもよく分かりませんが、たぶん子どもの頃ピーマンや春菊が大嫌いでもも、大人になるとピーマンの入った酢豚や春菊天そばもおいしく食べられるようになるのと同じ感じかもしれません。

大人の味、春菊天そば(文殊 両国)カテゴリーが違うかな?
左からF672~ F725~ ニューF741~

ニコンFは、大雑把な分け方では、初期、後期、ニューFと三つのタイプがある。初期と後期は、軍艦部の巻き上げレバー側にあるロゴが日本光学マークかNikonの文字かが分かれ目になるようだ。この光学マークは「奴さん」とか「富士山マーク」などと学生時代は呼んでいたが、ニコンの方に「これは富士山ではなくプリズムとレンズをデザインしたものです」と注意された思い出がある。専門家?の分類によるとセルフタイマーのレバーや、Tファインダー、FTNファインダーの取り付け可など様々な変化があるが、ニコンでは新しい変更に対応した改造を受け付けてくれていたので、中古で購入したFはオリジナルであるのか見極めるのは難しいようだ。

左からニューF741~ F725~(Nikon) F672~(光学マーク)
 

 軍艦部巻き戻しクランク側にある7桁の番号(製造番号・製品番号・ボディー番号などと呼ぶ)によって、67~中期辺りで変わるようだ。アイレベルファインダーの接眼部が長方形から分厚い正方形の枠に中が円形になっている。押しにくかったファインダーの着脱ボタンの枠に横溝が入っているのも分かりやすい変化だ。

アイレベルファインダーの接眼部の形やファインダー着脱ボタンの枠の変化が分かる

参考文献 カメラレビュー ニコンF40年 朝日ソノラマ

9600と8620②

直方機関区の49619 昭和45年 春
ペンタックスSP スーパータクマー50mmF1.4

 9600という機関車は、当時でも首都圏大宮で見ることができた。横浜から103系の京浜東北線に乗れば大宮まで直通で行ける駅だが、これが中学生には意外と遠かった。大宮に写真を撮りに行こうという話が何回か有ったがキャンセルになったり、米坂線に行く機会も流れたりした。直方の後で唐津線の多久という駅で一日待っても列車が来ない。「今日はウヤだって」と言われて悲しかった。なんか私には縁のない機関車のイメージがある。大正生まれの無骨な姿は好きなんですが。

給炭を終えた79657 巨大な給炭塔にびっくり
豊肥本線立野付近にて  昭和45年 春
豊肥本線を走るデフ付きの9600豊肥
天賞堂製の9600

昭和・平成の高島線

 自分の中学生時代、昭和40年代の高島線(品鶴線も含む)を話題にして平成の高島線はどうなってるんだと考えると、いけねえ、来週から令和だ。「平成時代」の高島線も記録しておこうとあまり天気はよくなかったけど出かけました。

 列車の大半は根岸駅に隣接する日石じゃなくてJXTGエネルギー根岸精油所からの石油輸送らしい。3.11の震災の際は被災地に石油を送るため根岸から盛岡へ向けて18両編成のタキ1000が毎日走るというニュースを聞いたような。

 10時にポートサイド公園に着く10:10頃上り石油列車が通過。ダイヤを調べてみると新鶴見所属の機関車牽引で倉賀野行き。40年ほど鉄ちゃん稼業をさぼっているので「倉賀野」ってどこ?って感じですが、ネットで調べると群馬県高崎市。高崎線の駅です。便利な世の中になりました。昭和40年代は情報が少なく日曜日に撮影に行くと何時間も待ちぼうけ、結局「今日はウヤだって」って話も多かったです。

鶴見川鉄橋を渡り横浜方面へ向かうD51451
アサヒペンタックスSP スーパータクマー50mmF1.4
鶴見駅よりも新鶴見側なので高島線というより品鶴線と言った方が正しいのかも。根岸に向かうタキは空かな。
前の二人は、わが中学校の写真部員「前に出るなよ」
新鶴見機関区所属EF210-136牽引のコンテナ列車 
ニコンDf ニッコールオート135mm F2.8 Ai改
平成31年4月25日(来週から令和)

高島水際線公園のおしゃれな連絡橋(エレベーター付き)にあがると10:30頃下りのコンテナ列車が通過。

この先で桜木町方面に向かうトンネルに入る

 135mmでは一緒に写らなかったけど、この夏(ということは令和元年夏?)移転オープンする横浜アンパンマンこどもミュージアムはすぐ近く。ジイジは孫連れて行かなくちゃ。

令和元年7月移転オープンする、横浜アンパンマンこどもミュージアム

ニコンF2の増殖

我が家のF2軍団

 いきなり増えたわけではなくボーナスを叩いて買ったF2ASをレベルアップすることから始まりました。巷ではF3が発売され、F2は過去のカメラとなりつつありましたが、AEのF3に乗り換える気はさらさらありませんでした。カメラ問屋に勤める友人Tに中野のフジヤカメラを紹介してもらったのはこの頃(40年前ですね)でした。今と違って様々なマニュアルフィルムカメラが百花繚乱状態でした。当時の店長さんを紹介してもらい、お得な情報もおしえてもらいました。特価の新品F2モータードライブMDー2があると言うのです。でも、少し訳ありでバッテリーパックMB-1はないのです。MB-1は単3乾電池10本を収納してMDー2の下に付けるのですがこれがなければMDー2は動きません。でもとりあえずモータードライブが欲しかったのでMB-1なしでも買ってしまいました。この頃から私の中古カメラ店巡りが始まります。

どこのお店かは忘れましたが無事見つかった新品のMB-1

ここでボディー・レンズ・モータードライブ・バッテリーパック全て新品のセットが完成するのですが、この時期から中古ボディー・レンズに興味をもってしまいます。まず、そそられたのがAiではないニッコールオートレンズニッコールオートレンズの作りの良さです。ニューニッコール、Aiニッコールが安っぽく見えてしまいました。当時ニコンではAi方式のカメラやファインダーDP-11やDP-12の保証書1枚でニューニッコールレンズを無料でAi化してくれるサービスがありました。そこで新しくカメラを買いたい友人がいればニコンFEやFMを推して、その保証書を借りるという作戦をとりました。ニコンのサービスステーションに持って行くと保証書にAiの赤い印を押されるのですが、古いレンズに興味のない人には関係なかったので。我が家のF2軍団の写真を見てお判りだと思いますが我が家のF2にはAi化したニッコールオートレンズを付けることが掟になっています。

品鶴線のD51130と111系横須賀線

鶴見川鉄橋付近ですれ違う新鶴見に向かうD51130と東京行き111系横須賀線(昭和44年)

 昭和44年頃は東海道線と横須賀線は大船から東京まで同じ線路を走ってました。昭和55年に線路分離、横須賀線はD51が走っていた貨物線(品鶴線)を走ることになります。新鶴見操車場の近くにできた新川崎駅もまだありません。東戸塚駅もまだ無くて、長い間東海道・横須賀線の車窓からは、「保土ヶ谷・戸塚間に新駅を」と書いた大きな看板が立っているのが見えました。牛のいるのどかな風景でした。

横浜機関区転車台で方向転換、新鶴見に向かうD51130

 横浜機関区は昭和61年に廃止され、この転車台は本牧市民公園に移設保存されていますが、形も色も当時とは違う感じがします。扇形機関庫はしばらく残っていた気がしますが、気が付くと跡形もなく消えていました。機関庫だけでなく桜木町方面に向かっていた線路もありません。地図で確認するとどうやら操車場のあった辺りから地下トンネルを通って桜木町・根岸方面につながっているようです。桜木町付近から新港埠頭や山下埠頭(山下公園)へ向かう線路もありましたね。赤レンガパークへ向かう汽車道として整備されていますが、新港埠頭(赤煉瓦倉庫)は当時(昭和45年頃かな)は勝手に入れない場所でした。万国橋以外に行く道はなく、万国橋の脇にあった詰め所で「写真を撮りたいんですけど」と言って住所・氏名を書いて入れてもらいました。

大正時代の赤レンガ倉庫と言って信じてくれる方はいますか?
横浜機関区で休む新鶴見機関区所属のD51130

アクセサリーシューの話③

富士写真フイルムのカメラ

フジカST701

真ん中が「FUJICA」のネームが浮き彫りになった初期のST701

 

 ST701は1970年発売の富士写真フィルム最初の35ミリフォーカルプレーン一眼レフ。新発売のわりにはTTL絞り込み平均測光という私の愛機ペンタックスSPと同じ古めかしいスペックだと感じた。受光素子にシリコンを使い、Cdsよりも応答速度が速いというのは実感できるほどではなかったが、ファインダーは明らかにペンタックスSPよりも明るく感じた。

箱に入った未使用のアクセサリーシューFORFUJICAST701

 このアクセサリーシューは実際使用したことがなかった。他のメーカーのアクセサリーシューが丁寧な梨地仕上げされているのに比べると、鉄板をプレスしただけの簡単で雑な作りのように感じる。

アクセサリーシューを装着したST701

 ミノルタやコニカのカメラと同じように円形の接眼部を反時計回りに回転させると外れ、アクセサリーシューを装着できる。何のためにあるのかわからなかった接眼部左の突起がアクセサリーシューを固定するための突起だったことがわかる。

アクセサリーシューの切り欠きが接眼部左の突起にかかり左右に動かないようになる。

 いろいろな資料を読んでいると黒ボディー用に黒く塗装されたアクセサリーシューがあったり、ST801のように作り付けのアクセサリーシューがついているものがあったり謎も多い。

ペンタ部のFUJICAの文字が浮き彫りになっている初期のST701
二年後の1972年に発売されたST801にはホットシューが付いている。

アクセサリーシューの話②

コニカのカメラ

 1965年発売の世界初のAE一眼レフ(外光式)のオートレックス。1968年発売のわが国初のTTL-AE一眼レフのコニカFTA。オートレックスの外光式AE機構を省略したオートレックスP。これらのアクセサリーシューもありました。

左からオートレックスP・オートレックス・コニカFTA

 ミノルタと同じように円形の接眼部を反時計回りに回転させると外れ、アクセサリーシューを装着できる。接眼部の左右に切り欠きがありアクセサリーシューがぐらつかないように固定できる。

 左からアクセサリーシューを装着したオートレックスP・オートレックス・コニカFTA(黒)黒ボディーだと接眼部の切り欠きとアクセサリーシューの突起がよくわかる。

 この時代のコニカの一眼レフはシャッター速度優先のAE機構からレリーズボタンがお化け煙突のように長く、重くストロークもかなり長かった。三台を並べてみるとAE機構を省略しているオートレックスPのシャッターボタンだけがストロークの短い普通のシャッターだった。巻き戻しノブも1軸式で軽快なお気に入りの一台だった。

アクセサリーシューを装着したオートレックスP・オートレックス・未装着のオートレックスP巻き戻しノブの違いも分かる。

 コニカFTAは後期になってシャッターのロック機構が付きシャッターボタンの高さ、ストロークが改善されたように見えるが見た目だけ。実際に改善されるのは後継機コニカオートリフレックスT3になってからですね。

左からコニカFTA後期(シャッターのロック付き)・オートリフレックスT3・ニューオートリフレックスT3

 オートリフレックスT3にもこのアクセサリーシューを装着することができるが、接眼部上に電気接点がありホットシューになるものが発売されていた。一年後に発売されたオートリフレックスニューT3では固定されたホットシューが付いた。

電気接点がありホットシューになるアクセサリーシューを装着したオートリフレックスT3と一年後に発売されたオートリフレックスニューT3
ホットシュー付きニューオートリフレックスT3

 我が家にはまだKONICAの刻印のあるアクセサリーシューがあった。接眼部左右の溝に差し込むタイプでストッパーもついている。古いコニカのFS・FP・FMなどを見てみると接眼部左右に溝がある。このシリーズのアクセサリーシューに間違いないと思われるが、またまた見つけてしまったKONICAの刻印のあるアクセサリーシューがあった。

コニカFPとアクセサリーシュ
アクセサリーシュを装着

 なんと我が家のコニカFSには既に巻き戻しノブの下に差し込むタイプのアクセサリーシューが付いていた。これにもKONICAの刻印があるので純正の物であろうし、巻き戻しノブの下の差し込みは他の使い道を知らない。

二つのタイプのアクセサリーシュー
それぞれのアクセサリーシューを付けたFSとFP
もちろん両方装着することもできる

 フラッシュを巻き戻しノブの上に付けるか、接眼部(レンズ)の上に付けるかによって写真も違ってくるのだろう。レンズの上にあると赤目が出やすいって話も聞いたことがある。後のカメラでもどちらも存在する。好みや撮影目的で選択できたとすると特筆ものだがコニカの以降のカメラには見られない。

アクセサリーシューの話①

私の我楽多が入っている引き出しの一つ

 自粛、自粛の日々。少し終活を進めようかと色々な我楽多の入っている引き出しを開けてみた。最近は使わない物がごちゃごちゃと入っている。アクセサリーシュー・フィルター・レンズフード(各メーカーの古い単焦点レンズのもの)など。それぞれのカメラやレンズに装着してやれば整理ができるかなといじり始めてしまいました。

 アクセサリーシューってなんだ?って話からですかね。もう過去の遺物の化石みたいな感じですが、私が中学生の頃は、各カメラメーカーから発売されていました。昭和40年代ですね。数百円で買える物でした。当時はフラッシュをカメラに取り付ける金具って思ってました。(実際は特別なレンズのためのファインダーや露出計を取り付けるためにも使われていたようです)

 アクセサリーシューは特に電気的な接点を備えてはいない単なる金具です。電気的な接点を備えているものはホットシューと呼ばれるようになりました。ニコンのニコマートではFT,FTNまではアクセサリーシューを使い、FT2からはホットシュー付きになりました。その時代は、ほとんどのカメラがホットシュー付きになるまでの間の短い期間でした。

左ニコマートFTN(後期)+アクセサリーシュー(黒)右ニコマートFT2
ニコマートはFT2でホットシュー付きになった。
左からニコマートFTN・FTN(後期)+アクセサリーシュー・FT2

ミノルタSR2

 ミノルタSR2は1958年発売ですからこの古めかしい箱は60年ほど前の品でしょうか。中身は未使用です。

 ミノルタSR2は巻き戻しレバーを引き上げるだけで裏蓋が開く、後には当たり前になる画期的なメカニズムを搭載していた。

円形の接眼部を反時計回りに回転させると外れ、アクセサリーシューを装着できる
接眼部を時計回りに締めて固定する。
ミノルタSR2と後に発売されたSR1
古めかしい箱はACCESSORIES ADAPTER CRAMP for Minolta SR-2

 手もとにあるSR2の後に発売されたSR1に付いていたアクセサリーシューはカメラボディーに接する端が黒くカバーされていてカメラボディーに傷がつかないように処理されている。確かにSR2用のものは上から押さえたりぶつけたりすると、すぐボディーに傷がつくような感じだ。中古カメラでアクセサリーシュー付きの物はペンタ部のえくぼを隠すために付けていつものやアクセサリーシューを押したりぶつけたりしてボディーに傷がついているものが多いので外して見る必要がある。

ナショナル(パナソニック)の「パナフォト」という発光器を装着

 かさを広げてシンクロコードをFP接点に差し込む。FP級バルブを差し込む。発光テストは実際に発光させるとそのバルブは終わりになってしまうので、テストボタンを押してパイロットランプが光れば準備完了。FP級バルブは中学生には高価で室内での記念撮影に使った以外、発光させたことがなかった。X接点につなげるストロボは当時はとても高価で中学生が小遣いで買えるようなものではなかった。

ミノルタNewSR1、SR1s

 ミノルタNewSR1、NewSR7、SR1sの接眼部は円形ではなく長方形で左右にアクセサリーシューを付けるための溝があった。スマートなデザインでアクセサリーシューは付いていない方がカッコいいかな。と言うかこのタイプのアクセサリーシューは我が家にありませんでした。商品名はアクセサリークリップVで¥500

開放測光のTTL機、SRT101(アクセサリーシュー付き)
SRT101の改良型SRTスーパー(ホットシュー付き)
SRT101の改良型SRTスーパーの改良型SR505(ホットシュー付き)

左沢線

 早起きして、山形新幹線つばさ121号に乗りました。今日の目的地は「左沢」。結構有名な難読駅名でスンナリ読める人はかなりの鉄道オタクかジモティーだと思ってましたが、最近は有名過ぎて「あてらざわ」と読めてしまう人が多いようです。

左沢線専用のキハ101形。残念ながらすべてロングシート

 東北地方のJR線でまだ乗りつぶしていないのが左沢線。まあ、いわゆる盲腸線なので特に用事がなければ乗るチャンスは無い路線です。サクランボ狩りや芋煮会などで来る機会が有ればよかったのですが。学生時代乗りつぶしに凝っていた友人の主張では、「昼間、窓側に座って乗らないと乗ったことにはならない。」と言うのがありました。でも、これ結構ハードルが高い。最近はローカル線でもオールロングシート車の場合が多いですね。この話を思い出すと奥羽本線も夜行で通り過ぎるだけで昼間、窓側に座って乗ったことがないような気がしてきた。今回、山形新幹線・秋田新幹線と重なる部分は新幹線を利用してもそれ以外は奥羽本線を楽しみたいと思います。

左沢線のマーク。左沢線はフルーツライン左沢線という愛称がついている。

 左沢線は山形を出て北山形まで山形城に沿って山形新幹線・奥羽本線と並行して走ります。普通に複線に見えますが、左沢線は狭軌。山形新幹線・奥羽本線は標準軌で見比べればその幅のちがいが容易にわかります。

車体に表記されている配置略号は仙カタ(仙は仙台支社カタは山形)だが正しくは昨年から幹カタ(幹は新幹線総括本部カタは山形新幹線車両センター)にかわっている。

 羽前長崎を過ぎると長い八連のトラス橋を渡ります。これが左沢線最上川橋梁。次の南寒河江駅で降りることにする。

羽前長崎を過ぎると長い八連のトラス橋を渡る。
南寒河江駅
左沢線最上川橋梁

 右側(南寒河江駅側)の背の低い5連のトラス橋が東海道本線の初代木曽川橋梁として1886(明治19)年架設されたが東海道本線の輸送量増大のため、強度不足から架け替えを行うこととなりここに移設、1921(大正10)年に竣工した。左側の3連は九州鉄道筑豊本線遠賀川橋梁1905(明治38)年架設を移設したものらしい。