平成最後のクリームパン?

 いつものパン屋さんへ行ったらいつものクリームパンに平成の文字。思わず買ってしまった。令和になったら令和の文字が入るのか楽しみです。

 昨日は母の90歳の誕生会を押上のロシア料理店「ベルーガ」でしました。最近同じことを何度も聞く母です。老老介護って大変だなと感じます。

イケネーイケネー写真撮る前に食べようとしていた。キャベツロール(ロールキャベツ?お店での呼び名はキャベツロール)

9600と8620②

直方機関区の49619 昭和45年 春
ペンタックスSP スーパータクマー50mmF1.4

 9600という機関車は、当時でも首都圏大宮で見ることができた。横浜から103系の京浜東北線に乗れば大宮まで直通で行ける駅だが、これが中学生には意外と遠かった。大宮に写真を撮りに行こうという話が何回か有ったがキャンセルになったり、米坂線に行く機会も流れたりした。直方の後で唐津線の多久という駅で一日待っても列車が来ない。「今日はウヤだって」と言われて悲しかった。なんか私には縁のない機関車のイメージがある。大正生まれの無骨な姿は好きなんですが。

給炭を終えた79657 巨大な給炭塔にびっくり
豊肥本線立野付近にて  昭和45年 春
豊肥本線を走るデフ付きの9600豊肥
天賞堂製の9600

昭和・平成の高島線

 自分の中学生時代、昭和40年代の高島線(品鶴線も含む)を話題にして平成の高島線はどうなってるんだと考えると、いけねえ、来週から令和だ。「平成時代」の高島線も記録しておこうとあまり天気はよくなかったけど出かけました。

 列車の大半は根岸駅に隣接する日石じゃなくてJXTGエネルギー根岸精油所からの石油輸送らしい。3.11の震災の際は被災地に石油を送るため根岸から盛岡へ向けて18両編成のタキ1000が毎日走るというニュースを聞いたような。

 10時にポートサイド公園に着く10:10頃上り石油列車が通過。ダイヤを調べてみると新鶴見所属の機関車牽引で倉賀野行き。40年ほど鉄ちゃん稼業をさぼっているので「倉賀野」ってどこ?って感じですが、ネットで調べると群馬県高崎市。高崎線の駅です。便利な世の中になりました。昭和40年代は情報が少なく日曜日に撮影に行くと何時間も待ちぼうけ、結局「今日はウヤだって」って話も多かったです。

鶴見川鉄橋を渡り横浜方面へ向かうD51451
アサヒペンタックスSP スーパータクマー50mmF1.4
鶴見駅よりも新鶴見側なので高島線というより品鶴線と言った方が正しいのかも。根岸に向かうタキは空かな。
前の二人は、わが中学校の写真部員「前に出るなよ」
新鶴見機関区所属EF210-136牽引のコンテナ列車 
ニコンDf ニッコールオート135mm F2.8 Ai改
平成31年4月25日(来週から令和)

高島水際線公園のおしゃれな連絡橋(エレベーター付き)にあがると10:30頃下りのコンテナ列車が通過。

この先で桜木町方面に向かうトンネルに入る

 135mmでは一緒に写らなかったけど、この夏(ということは令和元年夏?)移転オープンする横浜アンパンマンこどもミュージアムはすぐ近く。ジイジは孫連れて行かなくちゃ。

令和元年7月移転オープンする、横浜アンパンマンこどもミュージアム

9600と8620

 蒸気機関車の形式はよく知られているD51やC57のように1928年(昭和3年)に制定された形式称号規程によって最初のアルファベットが動輪(動軸)の数、その後ろ二桁が形式番号、その次が製造番号になっているのが一般的である。たとえばD51791は動軸4(Cは3・Dは4)・形式番号51・製造番号791となる。形式番号の50以上はテンダー機関車。10~49はタンク機関車になる。この時点(昭和3年)で旧形式から新形式に移された機関車に9900型D50や18900型C51などがあるが旧形式称号も併存していた。その代表的なものが9600と8620である。旧形式称号では同形式中で最小の番号を形式としている。だから9600は9600形式の1号機、8620は8620形式の1号機となる。大量増備されて8620が8621~8699になって繰り上がって8700となってしまうとそのときはすでに8700という形式の機関車があったので、形式が違ってしまうため百の位の繰り上がる数を一万の位に表示するようにしたみたいだ。ちなみに8600ではなく8620で始まるのはハチロク以前に8550というアメリカ製の形式がありその番号が8610までいっていたので切り上げて8620にしたらしい。

 徒然なるままに書いていたら、本当かな、どっかで見たなと思うことがあり、学習し直してみました。

参考文献                    臼井重信氏の「蒸気機関車の系譜図」交友社   久保田博氏の「懐想の蒸気機関車」交友社   

五能線で活躍していた78653 ウェスパ椿山駅にて 平成30年7月(五能線に8620が走っていた時にはなかった駅ですが)

 単純に8620の753号機とはならないんだけどそんな感じかな。近くの黄金咲き崎不老ふ死温泉へ行くために12月に立ち寄ったら、雪の季節はブルーシートがかけられていました。大切に扱われているようでうれしいです。この機関車は動ける状態にする計画が有ったようですがどうなったんでしょう。五能線で混合列車を引く姿(それは無理ですね)を夢に見ます。

青梅鉄道公園の8620、8620の1号機
朝の勤列車222レを牽引する88623  飯山線替佐付近 昭和46年3月

 中学を卒業した春休み信州方面に撮影旅行。美しい長野のハチロクに感動した。五能線や花輪線にも行きたいと思ったが、ハチロクが現役時代には叶わなかった。

デフ付きのハチロクもかっこいい
模型だとこんな感じ。後ろは8620の改良型C50どちらもトビー製

 塗装しないで生地のままなのは自分の下手な塗装をするよりこの方がかっこいいかなと思うのと、廉価版のようにシリンダーブロックがダイキャスト製ではないことをアピールしたいかな。

横浜赤レンガ倉庫と9600

ニコンDf Ai50mm F1.4 平成31年4月23日あと少しで令和

 天気がよかったので今の赤レンガパークへ行ってみた。1~3号岸壁は赤レンガパークの一部であり新港埠頭だったころの面影はあまりない。隣の大桟橋には大型客船の入港はなく、4・5号岸壁は新しくできた横浜海上防災基地になって海上保安庁の巡視船が停泊中だった。

海上保安庁巡視船「あきつしま」(PLH32)

 覚えている方もいるか(たぶんいない)と思いますが停泊中の巡視船「あきつしま」は天皇陛下がかつて(2015)ミクロネシアのペリリュー島で戦没者を慰霊した際、宿泊に利用した船です。なぜホテルに宿泊せず船に泊まったかはいろいろ訳があるようですが、その際海上保安庁もがんばってトイレにウォシュレットを装備したそうです。最近これ無いとつらいですよね。平成も最後です。

新港埠頭2号倉庫前の9600 ペンタックスSP スーパータクマー50mm F1.4

大正ではなく昭和46年頃の新港埠頭2号倉庫前の9600です。 ペンタックスSP スーパータクマー50mm F1.4
いつもより余分に煙り吐いてます。

 連結器に注目。これはネジ・リンク式連結器と呼ばれ左右に円盤形の緩衝器(バッファー)がついています。現在、まだ貨物列車などで使われている自動連結器や電車の密着連結器(これもいろいろ種類がありますが私詳しくありません)などとも違います。明治時代イギリスの鉄道にならって使われていましたが大正の末期からアメリカ式の自動連結器に切り替わっています。ですからこの「9600」は明治・大正時代の機関車に見えます。また「9600」のナンバープレートも形式9600(通称キューロク)のトップナンバー(1号機)のプレートです。キューロクは大正2年から製造された初めての国産テンダー式蒸気機関車です。そしてバックの新港埠頭2号倉庫(今の赤レンガ2号館)も明治44年に竣工しています。ですからどう見ても大正時代じゃないのって感じなんですがねえ。鉄ちゃん仲間からは昔の雑誌「鉄道ファン」で同じような写真を見たとか、映画・朝ドラの「旅路」の撮影風景ではないかとかのたれ込みがありましたが、実際私にもよく分かりません。「旅路」よりも後だと思います。はっきりしているのは私が高校一年生の頃、新港埠頭でペンタックスSPで撮った写真だということだけです。大正時代に高校一年生だったら今何歳だよって話ですが、私もまだ100歳は超えてませんし、大正ならペンタックスSPもありませんね。昭和46年の話です。高島線でD51791のさよなら運転をして、横浜機関区に蒸気機関車がいなくなった後です。記憶は定かでないのですが、しばらくして、長野方面からロッドを外したキューロク(ナンバープレートは付いていませんでしたが足回りには本当のナンバーが刻印されていました。その写真も撮ったはずなのですが見つかりません。さがしておきます)が横浜機関区に回送されてきました。そのキューロクが9600に変身したのです。連結器のバッファーもダミー(鋳物の作りもの)です。動く9600を回送して改装して?走らす。どれくらいのお金があればできるんでしょう。完成した動画が見たいです。知ってる方がいたら教えて欲しいです。

出演者と現場関係者の記念撮影みたい。線路と倉庫の距離感が分かりますが、昔はもっと近くにも線路があったんだとおもいます。この線路は今も赤レンガ1号館と2号館の間に残ってます。
今日は季節のリニューアル中でしたが9600が走っていた線路は確認できます。
当然後ろの連結器もダミーのバッファー付き
単機で汽車道を横浜機関区へ帰る「9600」

当然連結器はダミーなので単機以外はありえないですね。昭和の横浜の風景でした。私としては大正時代は大昔。今の若い人にしてみれば昭和40年代も大昔なんですよね。来週は令和だし。

ニコンF2の増殖

我が家のF2軍団

 いきなり増えたわけではなくボーナスを叩いて買ったF2ASをレベルアップすることから始まりました。巷ではF3が発売され、F2は過去のカメラとなりつつありましたが、AEのF3に乗り換える気はさらさらありませんでした。カメラ問屋に勤める友人Tに中野のフジヤカメラを紹介してもらったのはこの頃(40年前ですね)でした。今と違って様々なマニュアルフィルムカメラが百花繚乱状態でした。当時の店長さんを紹介してもらい、お得な情報もおしえてもらいました。特価の新品F2モータードライブMDー2があると言うのです。でも、少し訳ありでバッテリーパックMB-1はないのです。MB-1は単3乾電池10本を収納してMDー2の下に付けるのですがこれがなければMDー2は動きません。でもとりあえずモータードライブが欲しかったのでMB-1なしでも買ってしまいました。この頃から私の中古カメラ店巡りが始まります。

どこのお店かは忘れましたが無事見つかった新品のMB-1

ここでボディー・レンズ・モータードライブ・バッテリーパック全て新品のセットが完成するのですが、この時期から中古ボディー・レンズに興味をもってしまいます。まず、そそられたのがAiではないニッコールオートレンズニッコールオートレンズの作りの良さです。ニューニッコール、Aiニッコールが安っぽく見えてしまいました。当時ニコンではAi方式のカメラやファインダーDP-11やDP-12の保証書1枚でニューニッコールレンズを無料でAi化してくれるサービスがありました。そこで新しくカメラを買いたい友人がいればニコンFEやFMを推して、その保証書を借りるという作戦をとりました。ニコンのサービスステーションに持って行くと保証書にAiの赤い印を押されるのですが、古いレンズに興味のない人には関係なかったので。我が家のF2軍団の写真を見てお判りだと思いますが我が家のF2にはAi化したニッコールオートレンズを付けることが掟になっています。

品川駅港南口チャールストンの豚丼

 品川駅は学生時代(40年以上前の話ですが)通学に使っていた駅ですが港南口には出ることがほとんどありませんでした。芝浦食肉市場があるくらいで華やいだ雰囲気の場所ではなかったですね。最近は凄い変貌を遂げて、ニコンの博物館もできたし、高輪にあった松坂屋カメラも十分ほど歩くとあります。松坂屋カメラは最初の場所から桜田通り沿いに移転。さらに今回住所は北品川に移転。規模はかなり縮小されてさびしくなりました。桜田通り沿いにあったときは駐車場もあって便利だったのですが今回は駐車場が無いので品川駅から歩くことにしました。その前に腹ごしらえ、品川シーズンテラスのチャールストンで豚丼。焼き肉屋さんで芝浦直送なんて宣伝があるけど、ほんとすぐ近くだからね。

最近はまっている豚丼
芝浦直送岩中豚のトンテキ200gもうまい

ニコンF2チタンかF2ASか

私が就職した頃、F2チタン(ネーム入り)がカメラ屋の店頭に並びました。ニコンを扱うカメラ問屋A商会に就職した友人TがF2チタンを購入したと自慢してきました。欲しいと思ったのですが、仕事でも使うバリバリの実用機としてF2チタン(アイレベル)はどうかなという不安がありました。TTL測光を頼って写真を撮ってきた者には敷居が高い気がしたのです。

フィルムの箱には露出の目安が書いてあります。晴れならシャッター速度1/250 f8

 フィルムの箱にある露出の目安と相反法則(シャッター速度1/250 f8でもう一段絞りたいときはシャッター速度1/125 f11にすればよいということ)を理解していれば問題ないと分かっていても、晴れと快晴、明るい曇りと普通の曇りの違いって微妙ですよね。TはF2チタンとF2AS用の最新・最強のTTLファインダーDP-12(\59000)両方を買えばいいと言うのですが、それではボーナスを全部叩いても足りません。結局F2チタンはあきらめ、F2ASを購入することにしました。これが正解だったのかは分かりません。まあ、損か得かで考えるとF2チタンは今でも高値です。でも、株や金塊も値上がりしても売らなければ利益は出ないので、F2ASは売るつもりはないので損も得もないと無理矢理考えてます。

私のニコン初号機F2AS 今でもストラップ付きでいつでも出撃できます。
F2Aiニッコール50mmF1.4付きとAiニッコール35mmF2・Aiニッコール85mmF2


築地で海鮮丼

築地場外市場の栄寿司のおまかせ丼¥1700
栄寿司こちらが海鮮丼、最近食べてないからいくらか忘れちゃった。¥3000オーバーです。

少しわかりにくい路地の奥にあるので、大行列で長時間待つこともない。穴場です。(最近週末は結構混んでる)ウニやイクラが好きな人は海鮮丼かな。おまかせ丼はマグロ(基本的には赤身)カンパチ タイの炙り ホタテにサーモン(この日は、なかおちサーモン。これがうまい)なんかがいつものってるかな。それにこの日は赤貝のひもと生シラス。刺身は厚切りでうまいんだ。ウニやイクラが嫌いなわけではないけど、これで十分満足。季節によってブリ、ヒラマサ、シマアジ、カツオ、ホタルイカ、シラウオ、マカジキ、そうそう、クエをのせてくれたこともあった。その時期のおいしい魚が食べられます。

品鶴線のD51130と111系横須賀線

鶴見川鉄橋付近ですれ違う新鶴見に向かうD51130と東京行き111系横須賀線(昭和44年)

 昭和44年頃は東海道線と横須賀線は大船から東京まで同じ線路を走ってました。昭和55年に線路分離、横須賀線はD51が走っていた貨物線(品鶴線)を走ることになります。新鶴見操車場の近くにできた新川崎駅もまだありません。東戸塚駅もまだ無くて、長い間東海道・横須賀線の車窓からは、「保土ヶ谷・戸塚間に新駅を」と書いた大きな看板が立っているのが見えました。牛のいるのどかな風景でした。

横浜機関区転車台で方向転換、新鶴見に向かうD51130

 横浜機関区は昭和61年に廃止され、この転車台は本牧市民公園に移設保存されていますが、形も色も当時とは違う感じがします。扇形機関庫はしばらく残っていた気がしますが、気が付くと跡形もなく消えていました。機関庫だけでなく桜木町方面に向かっていた線路もありません。地図で確認するとどうやら操車場のあった辺りから地下トンネルを通って桜木町・根岸方面につながっているようです。桜木町付近から新港埠頭や山下埠頭(山下公園)へ向かう線路もありましたね。赤レンガパークへ向かう汽車道として整備されていますが、新港埠頭(赤煉瓦倉庫)は当時(昭和45年頃かな)は勝手に入れない場所でした。万国橋以外に行く道はなく、万国橋の脇にあった詰め所で「写真を撮りたいんですけど」と言って住所・氏名を書いて入れてもらいました。

大正時代の赤レンガ倉庫と言って信じてくれる方はいますか?
横浜機関区で休む新鶴見機関区所属のD51130