アクセサリーシューの話④

ペトリのカメラ

ペトリの最初の一眼レフは1959年発売のペトリペンタ。このペトリ最初の一眼レフはM42,プラクチカマウント。2年後にはマウントが専用スピゴットマウントのV2が発売され完全自動絞り化された。専用スピゴットマウントはペトリV6やFTなどに使われていたがペトリ最末期、倒産する1979年には、またM42マウントのMF-1を発売している。

M42マウントの初代ペトリペンタ

 ペトリの一眼レフは最初と最後がM42マウントという珍しいパターン。ヤシカの一眼レフは最初ヤシカペンタマチックで専用バヨネットマウント。その後M42マウントの一眼レフを多数発売。経営破綻後コンタックスマウント(バヨネットマウント)のカメラを発売した。マミヤの一眼レフ(35ミリ)は1961年発売のプリズマットNPはエキサクタマウント。1962年発売のプリズマットWPは三本爪の専用バヨネットマウント。1964年発売のプリズマットCPはM42マウント。それ以外にもニコンFマウントのニコレックスFやM42マウントのリコーシングレックスもOEM生産していたわけで、いろいろ作っていた。その後は1966年M42マウントのTLシリーズ、定位置ロックピン付きのM42マウントのSXシリーズの時代が続く。1978年にはまた専用バヨネットマウント(CSレンズシリーズ)使用のNCシリーズ。1980年には電気接点が多数あるZシリーズに変わという傍若無人ぶり。ZEクォーツにNCのSXシリーズのレンズが付くことは付くが実用的ではない(レンズの指標が 横に来てしまう)。

 ペンタ最末期の横走り布幕フォーカルプレーンシャッターのMF-1はM42マウント ペンタ部に電気接点のあるホットシューが付く

 レンズマウントの話ではなくアクセサリーシューの話に戻すと、我が家にいくつかあったアクセサリーシューをペトリのカメラに付けてみる。Petriと刻印のあるアクセサリーシューは四角いファインダー接眼部の左右に溝があり、その溝に差し込む。ところがV2、V3には差し込む溝が有るのに初代ペトリペンタにはこの溝が無い。

アクセサリーシューを付けたV2,V3と付かない初代ペトリペンタ

 アクセサリーシューを付けたV2,V3のペンタ部に付いているシボ皮は単なる飾りだと思っていたが、アクセサリーシューを付けた際にペンタ部に傷が付かないように配慮したものかと思う。そう考えるとペトリのカメラは誠実丁寧に作られていたのかなとも思う。(ニコンの一眼レフのペンタ部にも皮がはってありますね)

左からペトリペンタ、V2、V3

 では、ペンタ部に皮を貼っていない初代ペトリペンタにはアクセサリーシューは付かないのでしょうか。

初代ペトリペンタとV2には、巻き戻しクランク側の軍艦部側面にネジ穴がある

 初代ペトリペンタでは巻き戻しクランク側の軍艦部側面のネジ穴にアクセサリーシューを取り付けるようになっていた。ペンタ部にはかぶらないので皮は貼ってないってことかな。V2には軍艦部側面のネジ穴も有るし接眼部の溝もあった。要するにどちらにも装着できることになる。初代ペトリペンタとV2には巻き戻しノブの左に使い道の分からない突起が有るが、これはアクセサリーシューを固定するための突起だった。

我が家のマミヤファミリーに付いていた軍艦部側面のネジ穴に付けるアクセサリーシュー
ペトリペンタ、V2にあるき戻しクランク横の突起

 V2とV3の一番のちがいはシャッターボタン側の軍艦部前面に外付け露出計装着用の二つの突起とシャッタダイヤルにシャッタースピード連動のためのピンが出ていることだと言える。他にもセルフタイマーのレバーや巻き上げレバーの軸の皿ネジが黒いか、アクセサリーシューを取り付けるネジ穴と固定のための突起が有るか等が有るがこれは個体により変更時期が違うこともあるようで我が家のペトリでもいくつかのバリエーションがある。

V6Ⅱとアクセサリーシューと外付け露出計を付けたV6
作り付けのアクセサリーシューが付いたFTとホットシュー付きのFTⅡ
ペトリの中で一番のお気に入りペトリカラー35。35ミリフルサイズなのにハーフ判のオリンパスペンやキャノンデミに負けない小ささ。(後期のデミに比べると明らかに小さい)
1961年発売のプリズマットNPはエキサクタマウント
右端の1962年発売のプリズマットWPは三本爪の専用バヨネットマウント。

アクセサリーシューの話③

富士写真フイルムのカメラ

フジカST701

真ん中が「FUJICA」のネームが浮き彫りになった初期のST701

 

 ST701は1970年発売の富士写真フィルム最初の35ミリフォーカルプレーン一眼レフ。新発売のわりにはTTL絞り込み平均測光という私の愛機ペンタックスSPと同じ古めかしいスペックだと感じた。受光素子にシリコンを使い、Cdsよりも応答速度が速いというのは実感できるほどではなかったが、ファインダーは明らかにペンタックスSPよりも明るく感じた。

箱に入った未使用のアクセサリーシューFORFUJICAST701

 このアクセサリーシューは実際使用したことがなかった。他のメーカーのアクセサリーシューが丁寧な梨地仕上げされているのに比べると、鉄板をプレスしただけの簡単で雑な作りのように感じる。

アクセサリーシューを装着したST701

 ミノルタやコニカのカメラと同じように円形の接眼部を反時計回りに回転させると外れ、アクセサリーシューを装着できる。何のためにあるのかわからなかった接眼部左の突起がアクセサリーシューを固定するための突起だったことがわかる。

アクセサリーシューの切り欠きが接眼部左の突起にかかり左右に動かないようになる。

 いろいろな資料を読んでいると黒ボディー用に黒く塗装されたアクセサリーシューがあったり、ST801のように作り付けのアクセサリーシューがついているものがあったり謎も多い。

ペンタ部のFUJICAの文字が浮き彫りになっている初期のST701
二年後の1972年に発売されたST801にはホットシューが付いている。

アクセサリーシューの話②

コニカのカメラ

 1965年発売の世界初のAE一眼レフ(外光式)のオートレックス。1968年発売のわが国初のTTL-AE一眼レフのコニカFTA。オートレックスの外光式AE機構を省略したオートレックスP。これらのアクセサリーシューもありました。

左からオートレックスP・オートレックス・コニカFTA

 ミノルタと同じように円形の接眼部を反時計回りに回転させると外れ、アクセサリーシューを装着できる。接眼部の左右に切り欠きがありアクセサリーシューがぐらつかないように固定できる。

 左からアクセサリーシューを装着したオートレックスP・オートレックス・コニカFTA(黒)黒ボディーだと接眼部の切り欠きとアクセサリーシューの突起がよくわかる。

 この時代のコニカの一眼レフはシャッター速度優先のAE機構からレリーズボタンがお化け煙突のように長く、重くストロークもかなり長かった。三台を並べてみるとAE機構を省略しているオートレックスPのシャッターボタンだけがストロークの短い普通のシャッターだった。巻き戻しノブも1軸式で軽快なお気に入りの一台だった。

アクセサリーシューを装着したオートレックスP・オートレックス・未装着のオートレックスP巻き戻しノブの違いも分かる。

 コニカFTAは後期になってシャッターのロック機構が付きシャッターボタンの高さ、ストロークが改善されたように見えるが見た目だけ。実際に改善されるのは後継機コニカオートリフレックスT3になってからですね。

左からコニカFTA後期(シャッターのロック付き)・オートリフレックスT3・ニューオートリフレックスT3

 オートリフレックスT3にもこのアクセサリーシューを装着することができるが、接眼部上に電気接点がありホットシューになるものが発売されていた。一年後に発売されたオートリフレックスニューT3では固定されたホットシューが付いた。

電気接点がありホットシューになるアクセサリーシューを装着したオートリフレックスT3と一年後に発売されたオートリフレックスニューT3
ホットシュー付きニューオートリフレックスT3

 我が家にはまだKONICAの刻印のあるアクセサリーシューがあった。接眼部左右の溝に差し込むタイプでストッパーもついている。古いコニカのFS・FP・FMなどを見てみると接眼部左右に溝がある。このシリーズのアクセサリーシューに間違いないと思われるが、またまた見つけてしまったKONICAの刻印のあるアクセサリーシューがあった。

コニカFPとアクセサリーシュ
アクセサリーシュを装着

 なんと我が家のコニカFSには既に巻き戻しノブの下に差し込むタイプのアクセサリーシューが付いていた。これにもKONICAの刻印があるので純正の物であろうし、巻き戻しノブの下の差し込みは他の使い道を知らない。

二つのタイプのアクセサリーシュー
それぞれのアクセサリーシューを付けたFSとFP
もちろん両方装着することもできる

 フラッシュを巻き戻しノブの上に付けるか、接眼部(レンズ)の上に付けるかによって写真も違ってくるのだろう。レンズの上にあると赤目が出やすいって話も聞いたことがある。後のカメラでもどちらも存在する。好みや撮影目的で選択できたとすると特筆ものだがコニカの以降のカメラには見られない。

アクセサリーシューの話①

私の我楽多が入っている引き出しの一つ

 自粛、自粛の日々。少し終活を進めようかと色々な我楽多の入っている引き出しを開けてみた。最近は使わない物がごちゃごちゃと入っている。アクセサリーシュー・フィルター・レンズフード(各メーカーの古い単焦点レンズのもの)など。それぞれのカメラやレンズに装着してやれば整理ができるかなといじり始めてしまいました。

 アクセサリーシューってなんだ?って話からですかね。もう過去の遺物の化石みたいな感じですが、私が中学生の頃は、各カメラメーカーから発売されていました。昭和40年代ですね。数百円で買える物でした。当時はフラッシュをカメラに取り付ける金具って思ってました。(実際は特別なレンズのためのファインダーや露出計を取り付けるためにも使われていたようです)

 アクセサリーシューは特に電気的な接点を備えてはいない単なる金具です。電気的な接点を備えているものはホットシューと呼ばれるようになりました。ニコンのニコマートではFT,FTNまではアクセサリーシューを使い、FT2からはホットシュー付きになりました。その時代は、ほとんどのカメラがホットシュー付きになるまでの間の短い期間でした。

左ニコマートFTN(後期)+アクセサリーシュー(黒)右ニコマートFT2
ニコマートはFT2でホットシュー付きになった。
左からニコマートFTN・FTN(後期)+アクセサリーシュー・FT2

ミノルタSR2

 ミノルタSR2は1958年発売ですからこの古めかしい箱は60年ほど前の品でしょうか。中身は未使用です。

 ミノルタSR2は巻き戻しレバーを引き上げるだけで裏蓋が開く、後には当たり前になる画期的なメカニズムを搭載していた。

円形の接眼部を反時計回りに回転させると外れ、アクセサリーシューを装着できる
接眼部を時計回りに締めて固定する。
ミノルタSR2と後に発売されたSR1
古めかしい箱はACCESSORIES ADAPTER CRAMP for Minolta SR-2

 手もとにあるSR2の後に発売されたSR1に付いていたアクセサリーシューはカメラボディーに接する端が黒くカバーされていてカメラボディーに傷がつかないように処理されている。確かにSR2用のものは上から押さえたりぶつけたりすると、すぐボディーに傷がつくような感じだ。中古カメラでアクセサリーシュー付きの物はペンタ部のえくぼを隠すために付けていつものやアクセサリーシューを押したりぶつけたりしてボディーに傷がついているものが多いので外して見る必要がある。

ナショナル(パナソニック)の「パナフォト」という発光器を装着

 かさを広げてシンクロコードをFP接点に差し込む。FP級バルブを差し込む。発光テストは実際に発光させるとそのバルブは終わりになってしまうので、テストボタンを押してパイロットランプが光れば準備完了。FP級バルブは中学生には高価で室内での記念撮影に使った以外、発光させたことがなかった。X接点につなげるストロボは当時はとても高価で中学生が小遣いで買えるようなものではなかった。

ミノルタNewSR1、SR1s

 ミノルタNewSR1、NewSR7、SR1sの接眼部は円形ではなく長方形で左右にアクセサリーシューを付けるための溝があった。スマートなデザインでアクセサリーシューは付いていない方がカッコいいかな。と言うかこのタイプのアクセサリーシューは我が家にありませんでした。商品名はアクセサリークリップVで¥500

開放測光のTTL機、SRT101(アクセサリーシュー付き)
SRT101の改良型SRTスーパー(ホットシュー付き)
SRT101の改良型SRTスーパーの改良型SR505(ホットシュー付き)

左沢線

 早起きして、山形新幹線つばさ121号に乗りました。今日の目的地は「左沢」。結構有名な難読駅名でスンナリ読める人はかなりの鉄道オタクかジモティーだと思ってましたが、最近は有名過ぎて「あてらざわ」と読めてしまう人が多いようです。

左沢線専用のキハ101形。残念ながらすべてロングシート

 東北地方のJR線でまだ乗りつぶしていないのが左沢線。まあ、いわゆる盲腸線なので特に用事がなければ乗るチャンスは無い路線です。サクランボ狩りや芋煮会などで来る機会が有ればよかったのですが。学生時代乗りつぶしに凝っていた友人の主張では、「昼間、窓側に座って乗らないと乗ったことにはならない。」と言うのがありました。でも、これ結構ハードルが高い。最近はローカル線でもオールロングシート車の場合が多いですね。この話を思い出すと奥羽本線も夜行で通り過ぎるだけで昼間、窓側に座って乗ったことがないような気がしてきた。今回、山形新幹線・秋田新幹線と重なる部分は新幹線を利用してもそれ以外は奥羽本線を楽しみたいと思います。

左沢線のマーク。左沢線はフルーツライン左沢線という愛称がついている。

 左沢線は山形を出て北山形まで山形城に沿って山形新幹線・奥羽本線と並行して走ります。普通に複線に見えますが、左沢線は狭軌。山形新幹線・奥羽本線は標準軌で見比べればその幅のちがいが容易にわかります。

車体に表記されている配置略号は仙カタ(仙は仙台支社カタは山形)だが正しくは昨年から幹カタ(幹は新幹線総括本部カタは山形新幹線車両センター)にかわっている。

 羽前長崎を過ぎると長い八連のトラス橋を渡ります。これが左沢線最上川橋梁。次の南寒河江駅で降りることにする。

羽前長崎を過ぎると長い八連のトラス橋を渡る。
南寒河江駅
左沢線最上川橋梁

 右側(南寒河江駅側)の背の低い5連のトラス橋が東海道本線の初代木曽川橋梁として1886(明治19)年架設されたが東海道本線の輸送量増大のため、強度不足から架け替えを行うこととなりここに移設、1921(大正10)年に竣工した。左側の3連は九州鉄道筑豊本線遠賀川橋梁1905(明治38)年架設を移設したものらしい。

現有19形式 ⑯ 最強の超大型貨物機D52 

山北駅の南側沼津方面側に保存されたD5270 昭和46年頃

 D52が登場するまで、旅客機は重幹線にC53、C59を、幹線にC51、C57を重幹線、幹線ともD50 、D51の単一形式としていた。これは、D51、D50が出力的にC53、C59に匹敵していたためと考えられる。しかし、設計的にはD51の軸重は15tにも足らず、C59の16tに比べると重幹線に対して貨物機を大型化・強力化し得る余地が残されていたのである。
 鉄道輸送は長大列車に編成できることが他の陸上交通機関のまねのできない優れた特色である。よって列車単位はなるべく大きくした方が輸送力を増大でき、かつ輸送コストも低減できる。重幹線用の貨物機としてD51を上まわる超大型機は昭和14年頃から研究されていた。第二次大戦の末期、戦時輸送強化ののために製造された国鉄最強の貨物用機関車D52は生まれるべくして生まれた機関車であったと言える。

山北機関区が廃止されたのは昭和18年、戦争中の話 それ以後も箱根越えの補機の基地として転車台もあり、いつもD51やD52の煙が見えた。
駅の北側にある美容室

 私の父の実家が山北駅の近くにあり、子どもの頃は毎年数回訪れていた。夏休み、従兄に連れられて酒匂川で鮎釣りをしたり、ミカンの木に「鳥もち」(今は禁止されています)を仕掛けてメジロを捕まえたりした思い出がある。ボ~とした小学生だったので記憶が定かでないことも多いのだが、駅の周りの様子は今とはだいぶ違っていた。駅の北側の方が表口のような感じで商店街もあった。最近テレビドラマのロケで使われたレトロな佇まいの店も残っている。それに引き換え南側は殺風景だがホームからほぼ段差なく踏切を通って改札を出ることができた。

 父の実家は駅の南側に出て左に3分ほど歩いたところにある。今は立派な町役場が前にあるが、当時は電電公社の建物があった。その短い距離の間に、使っていないコンクリート製の給炭台のようなものがあった。そこに上がって沼津方面から来た機関車が転車台で方向を変え出発する様子を眺めていたことがある。横には日通の倉庫があった。駅の南側国府津よりのところに転車台があり、昭和44年以降も使わなくなった転車台がしばらく残っていた。高校生(昭和47年頃)になってその転車台を撮影した記憶があるがネガも写真も見当たらない。今となってはその転車台がどの辺にあったのかはっきりしないが、電電公社、町役場と公的な利用がされているということはこの一帯が山北機関区(国鉄)の敷地というか国有地であったからだろう。

D51の足回りに極大のボイラを載せたD52

 D52はD51と同じミカド形の軸配置に許容される最大限の軸重に収まるように超大型ボイラを搭載した設計で基本設計はD51以降の近代化標準機の手法が踏襲されてる。
D51の足回りにいかに極大のボイラを載せるかが設計上のテーマであったようだ。

1951年以降の整備改造後のD52 カツミシュパーブラインシリーズ

 基本設計の完成したころから、戦時の急迫のため、極力製作工数を削減し、また、資材の節約を最大限に計った、いわゆる戦時設計が要求された。銅、錫等の非鉄金属は極力代用品を使用することとし、デフレクター(煙除け)、ランボード(歩み板)等の木材で間に合うものは努めて代用、ドームカバーの工数の省略(四角)工作の厄介なものは廃止といった具合であった。したがって昭和18年に誕生したときの戦時設計D52の形態は、超大型機の期待に必ずしもふさわしからぬものであった。しかし、性能的には所期の目標通りD51をかなり上回る高性能が得られたようだ。16番の模型でもアダチから発売されたD52はこの戦時形から発売された。角型ドーム、木製のデフ・ランボード、テンダーの石炭囲い部など誕生時の姿を模型化している。私としては美しいとは思えず、手持ちの機関車と混在させる気にはならない。

バックサインをつけて広島駅で上り特急かもめの到着を待つD52 という妄想 
瀬野機関区では山陽本線の花形列車である「かもめ」の補機にテールマークを装着した。写真のマークは広島区の機関車用のヘッドマーク。ヘッドマークは所属機関区、梅小路、広島、下関、門鉄局共通で違う。

D52が面目を一新し、原設計通りの性能に戻ったのは、1951年以降の整備改造後である。徹底的な点検と整備の動機は、1945年にボイラ破裂事故が3件も起こったからである。整備改造は浜松と鷹取の国鉄工場、少数は広島工場でも担当した。内容はボイラ外火室板の取り換えまたは新ボイラーとの交換が主体で、新規には自動給炭機(ストーカー)を搭載している。給水温め器を煙突前方に移設、炭水車に中梁を設ける、ドーム、煙誘導版(デフ)及び炭庫上部の柵などの原設計への復帰等はD51戦時形と変わらない。「不格好な戦時形のD52が工場に入ってくると、約10日位の工程ですっかり見違えるような形態と充実した内容となって出て行くのを、深い満足感でい送った」(久保田 博著 懐想の蒸気機関車)

現有19形式 ⑮ 栄光の超大型旅客機 C62

カツミ製 シュパーブラインのC62砂 砂撒き管は外に出ている。

 戦時中大量に増備されたD52は、終戦後の貨物輸送の激減によってかなり余剰になり各機関区に赤錆びたD52が放置された。この余剰D52の旅客機への改造であった。この改造名義の新製で生まれたのが栄光の超大型旅客機C62で、49輌のD52が転用された。軸配置2C1のパシフィックC 59より一まわり重くなるため軸配置を2C2としなくてはならず狭軌では不可能に近いと言われていた2軸従台車を巧妙なっ設計によって実現している。D52の超大型ボイラを1750mmの大動輪に載せ国鉄の機関車では最高のボイラ中心高を採用している。砂撒き管はボイラ・ラッキングの下に配管されているのが原形だが後の改装で実態は様々な変化がある。C62のドームは汽車会社製(37~49)は前後端同形(前後対象)日立製作所(1~21)・川崎車両製(22~36)は後部がややなだらかだ。

C622が頭で当たり「2号機にあらざれば蒸気(カマ)にあらず」

 私が中学生だった昭和40年代中頃は蒸気機関車終焉に近づいていた。北海道のC62はツバメマークをデフレクターに残したC622がスワローエンジェルと呼ばれ熱狂的な人気で「2号機にあらざれば蒸気(カマ)にあらず」といった雰囲気だった。ニセコのC62重連の撮影でも2号機が前だと当たり、都合によりⅮ51が前に付いたりすると大ブーイングだったようだ。

C623が頭でまあまあかな この方がリアルな感じかも?
C62のドームは汽車会社製(37~49)は前後端同形(前後対象)日立製作所(1~21)・川崎車両製(22~36)は後部がややなだらかだ。

改造所別機関車番号は
日立製作所(21輌)C621~21
川崎車輌(15輌)C6222~C6236
汽車製造(13輌)C6237~C6249

C622もC623も日立製作所 一体ドームの後ろがややなだらかなタイプ 砂撒き管はボイラ・ラッキングの下に配管されている

 C62のストカーは国鉄動力車課と民間の共同で、給炭部分は発動機製造株式会社(後のダイハツ)、機関部は汽車会社が担当している。発動機製造会社は現大阪大学の研究者を中心に創立された会社で、後に〇〇発動機という後発メーカーがいくつもできたので大阪の発動機、略して大発(ダイハツ)になったそうだ。そう言えば昔ダイハツのオート三輪には大阪城のエンブレムが付いていたような。ミゼットはどうだったでしょう。

C62 カツミ製ゴールデンシリーズ これも砂撒き管はむき出し一体ドームは日立製作所・川崎車輌の後ろがややなだらかなタイプ

現有19形式 ⑭ハドソンの名機C61

私が九州撮影旅行に出かけた昭和43(1971)年の春 奥羽の生き残りC612(三菱重工にてⅮ511109より改造)が青森区から日豊線に転属したのを宮崎区で撮影した記憶があるが、そのネガが見つからない。

 戦時輸送の最優先から、戦後は旅客輸送が増え余剰になっていた貨物用のD51のボイラーを従台車を2軸にした新製のC57の下回り走行装置に載せたのがC61。
 1947年~1949年までに33輌が製作された。当初の計画ではD51➡C61・D52➡C62ともそれぞれ40輌としたが、その後の重幹線の強化のためC62が増加してC61はその分減らされた。C61は余剰形式の活用により製作費を削減する会計上は改造名義とされていたが再生再利用品の補修費を加えると新製費の約80%を要し、改造の範疇を超え実質は新製に近いものであったと言われている。

C61は東北・鹿児島の両線では特急用として活躍した。写真の天賞堂製C6130 の実車は九州に行ったことはない。

 C61・C62の形式の命名は変則的で母体名の末尾と関連させている。(D51➡C61、D52➡C62)その時点ではC60は欠番で後の1953年にパシフィックC59を改造したハドソンの機関車に若い欠番を充当し、C59とC60は連番になっている。製造は三菱重工製21輌、日本車両製12輌。東北・鹿児島の両線では特急用として活躍した。

C59手前とC61後ろ 一体ドームやテンダーの形態の違いが判る。
天賞堂製C61 C6130は日本車輛でⅮ511144より改造東北で活躍した機関車 青森区で廃車

 C61・C62のハドソン2形式は、改造と言っても新製に近い、古いものを使用したのはボイラ本体、加熱装置、火格子装置、バネの一部や連結器などの共通部品に過ぎなかった。足回りは台枠の中間鋳物など一部流用しているが、全くの新製と見なせる。ボイラは転用にあたって精密検査のうえ一部改造されたとはいえ、1955~1959年にほとんど全部が、国鉄工場製の新缶と交換されている。したがって新旧機関車番号の対照はあまり意味がない。

C61牽引の「はくつる」に盛岡からC60の前補機がつく。

現有19形式 ⑬ 戦後のハドソントリオ C60

 C60は重幹線の東海道、山陽線の電化の伸長によって余剰になったC59を幹線の東北、常磐、鹿児島、長崎線に転用するため、2軸従台車を採用して動輪軸重を軽減する改造を昭和28年に行った。

C602 川崎車両製C5962より浜松工場で改造 盛岡区で盛岡式小デフ(煙突周り)・旋回窓を取り付けた。1968年青森区で廃車

 1953年~1961年にかけて47輌改造され前期型C59から39輌、後期型からはC60101以降のナンバーをつけた8輌に分かれる。従台車はC61・C62とは変わった形となり鋳鋼製と鋼板溶接構造とがある。

昭和35年「はつかり」使用車両を新開発のキハ81系気動車に置換え。
「はつかり」日本初の気動車特急となる。
昭和39年東北本線初の寝台特急「はくつる」が品川客車区所属の20系客車で運転開始。
盛岡式小デフ(煙突周り)・旋回窓を取り付けた天賞堂製C60とカツミダイヤモンドシリーズC59改造のC60走行性能はどちらも良好。単機で特急を牽引させたい。C59・C60の切り欠きのない長い長方形のテンダーがよくわかる。
C59・C60とC61はテンダー以外も違いがみられる。C59・C60の一体ドームは前後ほぼ対象。C61はC57やⅮ51と似て後ろがなだらかに傾斜している。

 昭和39年東北本線初の寝台特急「はくつる」が品川客車区所属の20系客車で運転開始。

C61牽引の「はくつる」に盛岡からC60の前補機がつく。南部縦貫鉄道のレールバスが見えるので野辺地駅付近か?という妄想。
東北線では特急・急行はC61、C62の牽引が原則でC60は普通列車に充てられることが多かった。これはストーカーを装備していなかったのが理由のようだ。

南部縦貫鉄道レールバス

保存されている旧七戸駅
今年の一月南部縦貫鉄道を訪ねてみた。平日は公開していないことはしっていたが、隙間から少しでも覗ければいいと思っていたら、南部縦貫の方やレールバス愛好会の方が丁寧に対応してくださり、楽しい思い出になった。
令和二年1月29日
16番とNゲージ両方で

現有19形式 ⑫ 交響曲231パシフィック最終章C59

C591汽車会社製 鹿児島本線熊本電化によるさよなら蒸気下り特急みずほ博多~熊本間牽引 熊本区で廃車 九州鉄道記念館で保存 撮影はO君

交響曲231パシフィックの序章C54はわずか17輌の製造にとどまり感銘を受けなかったが、第二章以降はC55➡C57とゆるやかに盛り上がり最終章C59へと進展していく。D50を継ぐ近代標準機D51が昭和11年に登場。D50と同一グループの大型旅客機C53を継ぐ近代標準機がC59 であるが、その誕生は予想外に遅れた。第一陣のD51に続いて昭和12年に中型旅客機C57 、昭和13年に中型万能機C58 と相次いだが、待望の大型旅客機のC59 が誕生したのは昭和16年でD51 に5年も遅れた。C59 は3シリンダーのC53 をオーソドックスな2シリンダーに戻しているのが第一の改良といえる。そしてD51 、C57 、C58 の近代化標準機の技法を結集した近代標準機のラストを飾る最も洗練されてむだのない最強最後のパシフィック機だったと言える。大型テンダーは国鉄の蒸気機関車の最大記録となっている。私も呉線の旅客用に最後の奮闘をしている姿を撮影したかったがかなわなかった。

C59の特長大型テンダーは国鉄の蒸気機関車の最大記録 九州鉄道記念館
天賞堂製C59127重油専燃機 テンダーが違う
 C59127も新型10系客車を従えて特急かもめ牽引に活躍できなかったものかと思ってしまう。

 1953年神戸にあった国鉄鷹取工場で宮原区のC59127が重油専燃式にテスト改造された。当時輸送力増強のため重油併燃装置の取り付けが、勾配線区のD51などに施行されかなりの成果を挙げていた。C59127は山陽本線糸崎~八本松間での連続上り勾配区間のテストで石炭炊きに比べて約20%の出力アップの高性能を達成し、東海道線電化前の大阪~米原間で北陸線急行ゆのくにを限定仕業でけん引した。東海道線全線電化後は盛岡機関区に移ったが1輌の試作のみだったのであまり使用されず1960年には廃車になっている。1953年3月に京都~博多間の特急かもめが設定され、最初の牽引機はC59だった。C59127も特急牽引に活躍できなかったものかと思ってしまう。

呉線で10系寝台客車を従え急行安芸牽引で最後の奮闘