左沢線

 早起きして、山形新幹線つばさ121号に乗りました。今日の目的地は「左沢」。結構有名な難読駅名でスンナリ読める人はかなりの鉄道オタクかジモティーだと思ってましたが、最近は有名過ぎて「あてらざわ」と読めてしまう人が多いようです。

左沢線専用のキハ101形。残念ながらすべてロングシート

 東北地方のJR線でまだ乗りつぶしていないのが左沢線。まあ、いわゆる盲腸線なので特に用事がなければ乗るチャンスは無い路線です。サクランボ狩りや芋煮会などで来る機会が有ればよかったのですが。学生時代乗りつぶしに凝っていた友人の主張では、「昼間、窓側に座って乗らないと乗ったことにはならない。」と言うのがありました。でも、これ結構ハードルが高い。最近はローカル線でもオールロングシート車の場合が多いですね。この話を思い出すと奥羽本線も夜行で通り過ぎるだけで昼間、窓側に座って乗ったことがないような気がしてきた。今回、山形新幹線・秋田新幹線と重なる部分は新幹線を利用してもそれ以外は奥羽本線を楽しみたいと思います。

左沢線のマーク。左沢線はフルーツライン左沢線という愛称がついている。

 左沢線は山形を出て北山形まで山形城に沿って山形新幹線・奥羽本線と並行して走ります。普通に複線に見えますが、左沢線は狭軌。山形新幹線・奥羽本線は標準軌で見比べればその幅のちがいが容易にわかります。

車体に表記されている配置略号は仙カタ(仙は仙台支社カタは山形)だが正しくは昨年から幹カタ(幹は新幹線総括本部カタは山形新幹線車両センター)にかわっている。

 羽前長崎を過ぎると長い八連のトラス橋を渡ります。これが左沢線最上川橋梁。次の南寒河江駅で降りることにする。

羽前長崎を過ぎると長い八連のトラス橋を渡る。
南寒河江駅
左沢線最上川橋梁

 右側(南寒河江駅側)の背の低い5連のトラス橋が東海道本線の初代木曽川橋梁として1886(明治19)年架設されたが東海道本線の輸送量増大のため、強度不足から架け替えを行うこととなりここに移設、1921(大正10)年に竣工した。左側の3連は九州鉄道筑豊本線遠賀川橋梁1905(明治38)年架設を移設したものらしい。

現有19形式 ⑯ 最強の超大型貨物機D52 

山北駅の南側沼津方面側に保存されたD5270 昭和46年頃

 D52が登場するまで、旅客機は重幹線にC53、C59を、幹線にC51、C57を重幹線、幹線ともD50 、D51の単一形式としていた。これは、D51、D50が出力的にC53、C59に匹敵していたためと考えられる。しかし、設計的にはD51の軸重は15tにも足らず、C59の16tに比べると重幹線に対して貨物機を大型化・強力化し得る余地が残されていたのである。
 鉄道輸送は長大列車に編成できることが他の陸上交通機関のまねのできない優れた特色である。よって列車単位はなるべく大きくした方が輸送力を増大でき、かつ輸送コストも低減できる。重幹線用の貨物機としてD51を上まわる超大型機は昭和14年頃から研究されていた。第二次大戦の末期、戦時輸送強化ののために製造された国鉄最強の貨物用機関車D52は生まれるべくして生まれた機関車であったと言える。

山北機関区が廃止されたのは昭和18年、戦争中の話 それ以後も箱根越えの補機の基地として転車台もあり、いつもD51やD52の煙が見えた。
駅の北側にある美容室

 私の父の実家が山北駅の近くにあり、子どもの頃は毎年数回訪れていた。夏休み、従兄に連れられて酒匂川で鮎釣りをしたり、ミカンの木に「鳥もち」(今は禁止されています)を仕掛けてメジロを捕まえたりした思い出がある。ボ~とした小学生だったので記憶が定かでないことも多いのだが、駅の周りの様子は今とはだいぶ違っていた。駅の北側の方が表口のような感じで商店街もあった。最近テレビドラマのロケで使われたレトロな佇まいの店も残っている。それに引き換え南側は殺風景だがホームからほぼ段差なく踏切を通って改札を出ることができた。

 父の実家は駅の南側に出て左に3分ほど歩いたところにある。今は立派な町役場が前にあるが、当時は電電公社の建物があった。その短い距離の間に、使っていないコンクリート製の給炭台のようなものがあった。そこに上がって沼津方面から来た機関車が転車台で方向を変え出発する様子を眺めていたことがある。横には日通の倉庫があった。駅の南側国府津よりのところに転車台があり、昭和44年以降も使わなくなった転車台がしばらく残っていた。高校生(昭和47年頃)になってその転車台を撮影した記憶があるがネガも写真も見当たらない。今となってはその転車台がどの辺にあったのかはっきりしないが、電電公社、町役場と公的な利用がされているということはこの一帯が山北機関区(国鉄)の敷地というか国有地であったからだろう。

D51の足回りに極大のボイラを載せたD52

 D52はD51と同じミカド形の軸配置に許容される最大限の軸重に収まるように超大型ボイラを搭載した設計で基本設計はD51以降の近代化標準機の手法が踏襲されてる。
D51の足回りにいかに極大のボイラを載せるかが設計上のテーマであったようだ。

1951年以降の整備改造後のD52 カツミシュパーブラインシリーズ

 基本設計の完成したころから、戦時の急迫のため、極力製作工数を削減し、また、資材の節約を最大限に計った、いわゆる戦時設計が要求された。銅、錫等の非鉄金属は極力代用品を使用することとし、デフレクター(煙除け)、ランボード(歩み板)等の木材で間に合うものは努めて代用、ドームカバーの工数の省略(四角)工作の厄介なものは廃止といった具合であった。したがって昭和18年に誕生したときの戦時設計D52の形態は、超大型機の期待に必ずしもふさわしからぬものであった。しかし、性能的には所期の目標通りD51をかなり上回る高性能が得られたようだ。16番の模型でもアダチから発売されたD52はこの戦時形から発売された。角型ドーム、木製のデフ・ランボード、テンダーの石炭囲い部など誕生時の姿を模型化している。私としては美しいとは思えず、手持ちの機関車と混在させる気にはならない。

バックサインをつけて広島駅で上り特急かもめの到着を待つD52 という妄想 
瀬野機関区では山陽本線の花形列車である「かもめ」の補機にテールマークを装着した。写真のマークは広島区の機関車用のヘッドマーク。ヘッドマークは所属機関区、梅小路、広島、下関、門鉄局共通で違う。

D52が面目を一新し、原設計通りの性能に戻ったのは、1951年以降の整備改造後である。徹底的な点検と整備の動機は、1945年にボイラ破裂事故が3件も起こったからである。整備改造は浜松と鷹取の国鉄工場、少数は広島工場でも担当した。内容はボイラ外火室板の取り換えまたは新ボイラーとの交換が主体で、新規には自動給炭機(ストーカー)を搭載している。給水温め器を煙突前方に移設、炭水車に中梁を設ける、ドーム、煙誘導版(デフ)及び炭庫上部の柵などの原設計への復帰等はD51戦時形と変わらない。「不格好な戦時形のD52が工場に入ってくると、約10日位の工程ですっかり見違えるような形態と充実した内容となって出て行くのを、深い満足感でい送った」(久保田 博著 懐想の蒸気機関車)

現有19形式 ⑮ 栄光の超大型旅客機 C62

カツミ製 シュパーブラインのC62砂 砂撒き管は外に出ている。

 戦時中大量に増備されたD52は、終戦後の貨物輸送の激減によってかなり余剰になり各機関区に赤錆びたD52が放置された。この余剰D52の旅客機への改造であった。この改造名義の新製で生まれたのが栄光の超大型旅客機C62で、49輌のD52が転用された。軸配置2C1のパシフィックC 59より一まわり重くなるため軸配置を2C2としなくてはならず狭軌では不可能に近いと言われていた2軸従台車を巧妙なっ設計によって実現している。D52の超大型ボイラを1750mmの大動輪に載せ国鉄の機関車では最高のボイラ中心高を採用している。砂撒き管はボイラ・ラッキングの下に配管されているのが原形だが後の改装で実態は様々な変化がある。C62のドームは汽車会社製(37~49)は前後端同形(前後対象)日立製作所(1~21)・川崎車両製(22~36)は後部がややなだらかだ。

C622が頭で当たり「2号機にあらざれば蒸気(カマ)にあらず」

 私が中学生だった昭和40年代中頃は蒸気機関車終焉に近づいていた。北海道のC62はツバメマークをデフレクターに残したC622がスワローエンジェルと呼ばれ熱狂的な人気で「2号機にあらざれば蒸気(カマ)にあらず」といった雰囲気だった。ニセコのC62重連の撮影でも2号機が前だと当たり、都合によりⅮ51が前に付いたりすると大ブーイングだったようだ。

C623が頭でまあまあかな この方がリアルな感じかも?
C62のドームは汽車会社製(37~49)は前後端同形(前後対象)日立製作所(1~21)・川崎車両製(22~36)は後部がややなだらかだ。

改造所別機関車番号は
日立製作所(21輌)C621~21
川崎車輌(15輌)C6222~C6236
汽車製造(13輌)C6237~C6249

C622もC623も日立製作所 一体ドームの後ろがややなだらかなタイプ 砂撒き管はボイラ・ラッキングの下に配管されている

 C62のストカーは国鉄動力車課と民間の共同で、給炭部分は発動機製造株式会社(後のダイハツ)、機関部は汽車会社が担当している。発動機製造会社は現大阪大学の研究者を中心に創立された会社で、後に〇〇発動機という後発メーカーがいくつもできたので大阪の発動機、略して大発(ダイハツ)になったそうだ。そう言えば昔ダイハツのオート三輪には大阪城のエンブレムが付いていたような。ミゼットはどうだったでしょう。

C62 カツミ製ゴールデンシリーズ これも砂撒き管はむき出し一体ドームは日立製作所・川崎車輌の後ろがややなだらかなタイプ

現有19形式 ⑭ハドソンの名機C61

私が九州撮影旅行に出かけた昭和43(1971)年の春 奥羽の生き残りC612(三菱重工にてⅮ511109より改造)が青森区から日豊線に転属したのを宮崎区で撮影した記憶があるが、そのネガが見つからない。

 戦時輸送の最優先から、戦後は旅客輸送が増え余剰になっていた貨物用のD51のボイラーを従台車を2軸にした新製のC57の下回り走行装置に載せたのがC61。
 1947年~1949年までに33輌が製作された。当初の計画ではD51➡C61・D52➡C62ともそれぞれ40輌としたが、その後の重幹線の強化のためC62が増加してC61はその分減らされた。C61は余剰形式の活用により製作費を削減する会計上は改造名義とされていたが再生再利用品の補修費を加えると新製費の約80%を要し、改造の範疇を超え実質は新製に近いものであったと言われている。

C61は東北・鹿児島の両線では特急用として活躍した。写真の天賞堂製C6130 の実車は九州に行ったことはない。

 C61・C62の形式の命名は変則的で母体名の末尾と関連させている。(D51➡C61、D52➡C62)その時点ではC60は欠番で後の1953年にパシフィックC59を改造したハドソンの機関車に若い欠番を充当し、C59とC60は連番になっている。製造は三菱重工製21輌、日本車両製12輌。東北・鹿児島の両線では特急用として活躍した。

C59手前とC61後ろ 一体ドームやテンダーの形態の違いが判る。
天賞堂製C61 C6130は日本車輛でⅮ511144より改造東北で活躍した機関車 青森区で廃車

 C61・C62のハドソン2形式は、改造と言っても新製に近い、古いものを使用したのはボイラ本体、加熱装置、火格子装置、バネの一部や連結器などの共通部品に過ぎなかった。足回りは台枠の中間鋳物など一部流用しているが、全くの新製と見なせる。ボイラは転用にあたって精密検査のうえ一部改造されたとはいえ、1955~1959年にほとんど全部が、国鉄工場製の新缶と交換されている。したがって新旧機関車番号の対照はあまり意味がない。

C61牽引の「はくつる」に盛岡からC60の前補機がつく。

現有19形式 ⑬ 戦後のハドソントリオ C60

 C60は重幹線の東海道、山陽線の電化の伸長によって余剰になったC59を幹線の東北、常磐、鹿児島、長崎線に転用するため、2軸従台車を採用して動輪軸重を軽減する改造を昭和28年に行った。

C602 川崎車両製C5962より浜松工場で改造 盛岡区で盛岡式小デフ(煙突周り)・旋回窓を取り付けた。1968年青森区で廃車

 1953年~1961年にかけて47輌改造され前期型C59から39輌、後期型からはC60101以降のナンバーをつけた8輌に分かれる。従台車はC61・C62とは変わった形となり鋳鋼製と鋼板溶接構造とがある。

昭和35年「はつかり」使用車両を新開発のキハ81系気動車に置換え。
「はつかり」日本初の気動車特急となる。
昭和39年東北本線初の寝台特急「はくつる」が品川客車区所属の20系客車で運転開始。
盛岡式小デフ(煙突周り)・旋回窓を取り付けた天賞堂製C60とカツミダイヤモンドシリーズC59改造のC60走行性能はどちらも良好。単機で特急を牽引させたい。C59・C60の切り欠きのない長い長方形のテンダーがよくわかる。
C59・C60とC61はテンダー以外も違いがみられる。C59・C60の一体ドームは前後ほぼ対象。C61はC57やⅮ51と似て後ろがなだらかに傾斜している。

 昭和39年東北本線初の寝台特急「はくつる」が品川客車区所属の20系客車で運転開始。

C61牽引の「はくつる」に盛岡からC60の前補機がつく。南部縦貫鉄道のレールバスが見えるので野辺地駅付近か?という妄想。
東北線では特急・急行はC61、C62の牽引が原則でC60は普通列車に充てられることが多かった。これはストーカーを装備していなかったのが理由のようだ。

南部縦貫鉄道レールバス

保存されている旧七戸駅
今年の一月南部縦貫鉄道を訪ねてみた。平日は公開していないことはしっていたが、隙間から少しでも覗ければいいと思っていたら、南部縦貫の方やレールバス愛好会の方が丁寧に対応してくださり、楽しい思い出になった。
令和二年1月29日
16番とNゲージ両方で

現有19形式 ⑫ 交響曲231パシフィック最終章C59

C591汽車会社製 鹿児島本線熊本電化によるさよなら蒸気下り特急みずほ博多~熊本間牽引 熊本区で廃車 九州鉄道記念館で保存 撮影はO君

交響曲231パシフィックの序章C54はわずか17輌の製造にとどまり感銘を受けなかったが、第二章以降はC55➡C57とゆるやかに盛り上がり最終章C59へと進展していく。D50を継ぐ近代標準機D51が昭和11年に登場。D50と同一グループの大型旅客機C53を継ぐ近代標準機がC59 であるが、その誕生は予想外に遅れた。第一陣のD51に続いて昭和12年に中型旅客機C57 、昭和13年に中型万能機C58 と相次いだが、待望の大型旅客機のC59 が誕生したのは昭和16年でD51 に5年も遅れた。C59 は3シリンダーのC53 をオーソドックスな2シリンダーに戻しているのが第一の改良といえる。そしてD51 、C57 、C58 の近代化標準機の技法を結集した近代標準機のラストを飾る最も洗練されてむだのない最強最後のパシフィック機だったと言える。大型テンダーは国鉄の蒸気機関車の最大記録となっている。私も呉線の旅客用に最後の奮闘をしている姿を撮影したかったがかなわなかった。

C59の特長大型テンダーは国鉄の蒸気機関車の最大記録 九州鉄道記念館
天賞堂製C59127重油専燃機 テンダーが違う
 C59127も新型10系客車を従えて特急かもめ牽引に活躍できなかったものかと思ってしまう。

 1953年神戸にあった国鉄鷹取工場で宮原区のC59127が重油専燃式にテスト改造された。当時輸送力増強のため重油併燃装置の取り付けが、勾配線区のD51などに施行されかなりの成果を挙げていた。C59127は山陽本線糸崎~八本松間での連続上り勾配区間のテストで石炭炊きに比べて約20%の出力アップの高性能を達成し、東海道線電化前の大阪~米原間で北陸線急行ゆのくにを限定仕業でけん引した。東海道線全線電化後は盛岡機関区に移ったが1輌の試作のみだったのであまり使用されず1960年には廃車になっている。1953年3月に京都~博多間の特急かもめが設定され、最初の牽引機はC59だった。C59127も特急牽引に活躍できなかったものかと思ってしまう。

呉線で10系寝台客車を従え急行安芸牽引で最後の奮闘

現有19形式 ⑪ 日本の代表蒸気 D51

 D51は国鉄の機関車の中でも最も多い輌数が生産され、日本中で最後まで多数が活躍した機関車である。昭和40年代中頃、C62やC57 牽引の旅客列車を狙うファンからは犬のクソ扱いされるような存在でもあった。C62重連の急行ニセコを狙って遥々北海道まで行って、やっと来たと思ったら、どういうわけか重連の前がD51だった時は石を投げたくなったと言う友人もいた。機関車に石を投げてはいけません。

横浜機関区扇形機関庫の前で転車台に重油併燃装置付D51130
昭和45(1969)年12月29日
D51130は長岡から新鶴見に配属されてきた。高島線では唯一重油タンクをドームの後ろに付けて(テンダーについているタイプは他にもいた)いた。
鶴見川鉄橋手前で111系横須賀線とすれ違うD51130。当時横須賀線は東海道線の線路を走っていた。現在はD51の走っていた貨物線を走っている。鶴見駅を過ぎた辺りで新しくできた羽沢横浜国大方面に分岐する。 昭和45(1970)年1月6日
新小岩のスターD5121汽車会社製造山北に配属御殿場線で活躍。新鶴見に在籍したこともあった。 首都圏では私が撮影した唯一のナメクジだった。鋳鋼製テンダー台車や煙室前端が丸味をもっているのがわかる。Wシールドビームですが。昭和45(1970)年1月15日 新小岩機関区 
給炭完了で入換作業に向かうD5121 
昭和45(1970)年1月15日 新小岩機関区

 D51は1936~1945年にかけて1115輌が製造された。国鉄最初の箱型輪新(ボックス)動輪を採用しC57と並び近代国鉄形蒸気を確立させた貨物用機関車である。1936~1938年に製造された95輌は、煙突、給水温め器、砂箱、蒸気ドームを一体にカバーした通称ナメクジタイプである。(その内2輌はキャブまで延長通称スーパーナメクジ)丸味をもつ煙室前端、動力逆転機、鋳鋼製テンダー台車などの特徴がある。量産機は1937~1944年にかけて859輌が製造された。ドームは普通の一体型、給水温め器は煙突前方(おでこ)に横に、逆転機は一部を除いて手動式に戻った。テンダー台車も大部分は板台枠。1944~1945年は戦時設計で161輌。船底形テンダー、ドームの簡素化(蒲鉾形ドーム)、ディスク先従輪などの特徴がある。

D51って何輌あるんだっけと考えてしまうD511150 立派なカマボコドームだがこの写真では確認できない。昭和46年3月
Ⅾ511062は1000番台でも標準ドームだった。筑豊本線 昭和46年3月

 Ⅾ51は1115輌が国鉄に在籍していたが955~1000は欠番になっている。戦時型を1001から付番して区別している。そのため国鉄D51のラストナンバーは1161(日車製1967年東能代区で廃車)になる。筑豊本線ではD60 以外にも様々なD51 と出会うことができた。

筑豊本線のナメクジ D5142汽車会社製 東北時代は重油併燃装置付きだったが直方で取り外されたようだ。

D51の原設計の特徴、煙突、給水温め器、砂箱、蒸気ドームを一体カバーに収めた半流線形はとても斬新なデザインだと思う。しかし、後の基本設計では重量配分の改善と給水温め器の検修の理由で昭和13年度以降の新製より給水温め器を煙突の前に置くように変更された。給水温め器の位置は配管や点検・検修ののためには前デッキ上が望ましいわけだが、D51の前デッキには先台車のバネ装置があるため、煙突の前に置かざるを得なかったようである。よって日本の蒸気機関車の代表・代名詞デコイチはオデコに給水温め器を付けた姿が普通のデコイチということになっている。だから私は1次型をデゴイチ、標準型・戦時型をデコイチと呼んでいる。デゴイチ、デコイチどっちでもいいですね。

Ⅾ5110川崎車輌製 新製後鳥栖に配属終始九州の罐 直方区最終在籍蒸気の1輌 行橋市で保存されていたが、のちに直方汽車倶楽部が引き取り修復作業中 昭和46年3月
菜の花と団結D511155 川崎車輌製 昭和46年3月
ピースマークのD51906三菱重工業製後藤式集煙装置付きとD51614日本車両製鷹取式集煙装置付き 関西本線加太駅
D51906 集煙装置(この集煙装置は鷹取式に似ているが後藤式の後期型らしい)と重油タンクで目立たないがカマボコドーム。1000番台ではありませんが、D51はいろいろあります。準戦時形と言われる106輌 D51746・747 846~949号で量産形から戦時形に移行する過渡期のD51。D51906はデフに煙草のピースの鳩マークを付けた機関車。近畿圏の臨時旅客列車牽引によく駆り出されていたようだ。この時は青いスハ43系だったが、12系やオールグリーンの臨客も牽引している。

夜のD51

D51549 中央西線塩尻駅にて長野工場で新製 当然長工式集煙装置昭和45年篠ノ井線お別れ列車を牽引。 長野市に保存されている(長工式集煙装置は取り外し済)昭和46年3月
D51402 日車製長工式集煙装置付き中央西線塩尻駅にて  
昭和46年3月
キャブに乗せてもらって火室を撮影、夜だから周りは何だかわからない。
天賞堂製C622と並ぶ北海道形切り詰めデフのアダチ製D51 (本物とは逆にD61を一軸従台車化したもの)
カツミシュパーブラインのⅮ51を北海道タイプの切り詰めデフに交換。ロストワックス製パーツを付けた。

新鶴見所属横浜機関区のⅮ51

D51652日立製作所製 新製後山北区(山北区廃止後は国府津区)御殿場線で活躍していたらしい。その後新鶴見区所属昭和46(1970)年8月に廃車。神奈川県内で一生を過ごした機関車だった。昭和46(1970)年1月
給炭中のⅮ51451汽車会社製 昭島市昭和公園に保存されているが状態はあまりよくないらしい。 
昭和45(1969)年12月29日
横浜機関区給炭台前のドーム後ろの重油タンクⅮ51130とテンダーに重油タンクのⅮ51723日立製作所製
転車台上のⅮ51130日立製作所製 昭和46(1970)年1月

現有19形式 ⑩ 画期的大型貨物機の軸重軽減改造によって生まれたD60 

筑豊本線折尾~中間間を行く 門鉄デフD6065 日立製作所製D50191より改造 昭和46年3月 「昭和45年10月以降大分から直方に転出した罐だ」と O君が教えてくれました。

 D50の軸重軽減改造によって生まれたD60。大正生まれに鋳鋼製の2軸従台車は違和感がと言う人もいるが私は気にしない。本州では磐越東線で石灰石・セメント輸送に活躍していたが、すでに九州だけで見られる罐になっていた。

直方機関区のD6046川崎造船所(川崎車輌)の丸っこい砂箱 大きな給炭塔にびっくり 昭和46年3月
D60の重連石炭列車だと思ったら後ろはD51だった。ニセコのC62重連を狙っていたら前がD51だったほどはがっかりはしない。直方区のD6027日立製作所製D50237から改造 筑豊本線折中間~筑前垣生間 昭和46年3月
直方区のD6022 汽車会社製D5085から改造、角張った砂箱 D60らしい長大編成に見える 筑豊本線折尾~中間 昭和46年3月
菜の花の季節だった D6027は日立製作所製D50237から改造角張った砂箱? 昭和46年3月
D6027 菜の花ボケ過ぎ 昭和46年3月
小倉工式門デフD6067ブレブレ 大分運転所所属 筑豊本線遠賀川鉄橋付近 昭和46年3月
D6022 汽車会社製D5085より改造 角張った砂箱 筑豊本線遠賀川鉄橋 昭和46年3月
大分運転所から直方区に来たD6062これもブレブレ 日立製作所製D50229より改造、砂箱は角張っているように見える。
宮沢模型製D60 宮沢模型製D50より2軸従台車にして改造 角張った砂箱
宮沢模型製D6027 宮沢模型製日立製作所製D50237から2軸従台車にして改造 角張った砂箱
単機のD6028これは日車製Ⅾ50306より改造

https://c57115.hatenablog.com/

D60について詳しくはO君のブログ「転轍機」をご覧ください。

現有19形式 ⑨ 画期的大型貨物機 D50

宮沢模型製D50 砂箱は角ばってる 

 大正12年(1923)に国産標準機第1号の9600を上回る大型強力機の要請に応じて新製された。大きな砂箱、化粧煙突、前面デッキにの上にむき出しで乗った給水温め器が印象的な大正の名機。9600に比べて一まわり大きな動輪。従輪がついてがっちりと安定した感じを受ける。スピードアップのための動輪径の拡大と出力アップのための大型ボイラに1D1ミカド形(明治中期にアメリカから輸入された9700がミカド形の元)軸配置が採用された。新製時には9900形式と呼称されたが昭和3年の機関車称号規定の改正でD50形式と改められた。メーカーは川崎車両198輌、日立製作所80輌、汽車会社69輌、日本車両33輌の380輌で川崎車両の比率が高い。D50は貨物または勾配線用機であるため搭載する砂容量を増大し、1個にまとめたため大型化している。砂容量は9600の約三倍近くで、D51よりも多く搭載したようである。勾配または貨物用では砂の使用は粘着力増大の奥の手であり、また命綱となる場合もあったので機関士には搭載量が多いほうが好ましかったようである。超大型の缶上式で製造会社によって標準的な設計を変更しその社の特色を出している。汽車会社製の砂箱は角張っていて、川崎車輌製は丸味をもっている。いずれにしても「ごはん蒸し」の異名もあったそうだ。

どちらも宮沢模型製のⅮ50 門鉄デフ付きもあった。どちらも汽車会社製のような角張った砂箱だ。後に川崎車輌製の丸味をもった砂箱のタイプも発売されたらしい。

機関車軸配置

日本国鉄式通称国鉄テンダー機関車
1Cモーガル8620 C50 C56
1C1プレーリーC58
2C2ハドソンC60 C61 C62
2C1パシフィックC55 C57 C59
1Dコンソリデーション9600
1D1ミカドD50 D51 D61
1D2バークシャーD60 D61 D62

現有19形式 ⑧ 強力国産標準機 9600

直方機関区で入換作業中の79657 昭和46年3月

 9600は大正2年(1913)が製造初年で14年間に770輌が量産された。これは翌大正3年が製造初年の兄弟機8620の687輌を上回り、大正後期に申請されたC51の289輌、D50の380輌を凌駕している。これは国鉄の機関車最大新製輌数の記録1115輌のD51に次ぐ記録である。メーカー別の新製輌数は川崎造船所(後の川崎車両)が全体の約90%を占める689輌。残りが汽車会社69輌と小倉工場15輌で分担している。一方兄弟機の8620は汽車会社、日立製作所を中心としている。これは車両の新製において同じメーカーで毎年同一輌数に平準化して生産するのが品質の確保と新製コストの低減を計るために効果的であるという考えに基づいている。現有19形式の中でも最古の形式でしぶとく残った。

横浜新港埠頭の赤レンガ倉庫前の9600 私が高校生の頃 大正3年の写真 ウソそれじゃあ還暦のじいさんだろうって言っていた昭和47年頃 本当に還暦過ぎのじいさんになってこの写真を見るとは思わなかった。ネジ式連結器のバッファーは鋳物のダミーだった。本物の9600(形式9600のトップナンバー)は川崎造船所製で軍供出で中国大陸に渡っている。
ナンバープレートは形式入りの59631になっているがこれもウソ。同じ機関車のナンバープレートを取り換えているのを見てしまった。

 当時の新港埠頭(赤レンガ倉庫周辺)は線路だらけ。架線はなくDD13が走っているのは見たことがある。入り口は万国橋しかなく、赤レンガ倉庫を撮影したいときは橋にある詰め所で住所氏名を記入して撮影の許可をもらって入った。埠頭内は外国の船員が歩いているだけで赤レンガ倉庫は中国産のお茶の匂いがすごかった。9600は映画撮影のためのものだったが、どれくらいお金をかけたのだろう。

D51がいなくなった横浜機関区の扇形機関庫に長野方面(たぶん)から回送されて来たキューロク。これが9600に化ける。ナンバーは足回りの刻印でわかったがその写真が見つからない。
青梅鉄道公園に保存されている9608
天賞堂製9600
立野スイッチバックを行く39680
立野にて 9600が客車を牽いて来た。門鉄デフ、ナンバーは79602 熊本区の所属北海道に渡り、追分機関区の火事で焼けてしまったらしい。昭和46年3月
立野にて昭和46年3月
立野にて昭和46年3月