現有19形式 ⑧ 強力国産標準機 9600

直方機関区で入換作業中の79657 昭和46年3月

 9600は大正2年(1913)が製造初年で14年間に770輌が量産された。これは翌大正3年が製造初年の兄弟機8620の687輌を上回り、大正後期に申請されたC51の289輌、D50の380輌を凌駕している。これは国鉄の機関車最大新製輌数の記録1115輌のD51に次ぐ記録である。メーカー別の新製輌数は川崎造船所(後の川崎車両)が全体の約90%を占める689輌。残りが汽車会社69輌と小倉工場15輌で分担している。一方兄弟機の8620は汽車会社、日立製作所を中心としている。これは車両の新製において同じメーカーで毎年同一輌数に平準化して生産するのが品質の確保と新製コストの低減を計るために効果的であるという考えに基づいている。現有19形式の中でも最古の形式でしぶとく残った。

横浜新港埠頭の赤レンガ倉庫前の9600 私が高校生の頃 大正3年の写真 ウソそれじゃあ還暦のじいさんだろうって言っていた昭和47年頃 本当に還暦過ぎのじいさんになってこの写真を見るとは思わなかった。ネジ式連結器のバッファーは鋳物のダミーだった。本物の9600(形式9600のトップナンバー)は川崎造船所製で軍供出で中国大陸に渡っている。
ナンバープレートは形式入りの59631になっているがこれもウソ。同じ機関車のナンバープレートを取り換えているのを見てしまった。

 当時の新港埠頭(赤レンガ倉庫周辺)は線路だらけ。架線はなくDD13が走っているのは見たことがある。入り口は万国橋しかなく、赤レンガ倉庫を撮影したいときは橋にある詰め所で住所氏名を記入して撮影の許可をもらって入った。埠頭内は外国の船員が歩いているだけで赤レンガ倉庫は中国産のお茶の匂いがすごかった。9600は映画撮影のためのものだったが、どれくらいお金をかけたのだろう。

D51がいなくなった横浜機関区の扇形機関庫に長野方面(たぶん)から回送されて来たキューロク。これが9600に化ける。ナンバーは足回りの刻印でわかったがその写真が見つからない。
青梅鉄道公園に保存されている9608
天賞堂製9600
立野スイッチバックを行く39680
立野にて 9600が客車を牽いて来た。門鉄デフ、ナンバーは79602 熊本区の所属北海道に渡り、追分機関区の火事で焼けてしまったらしい。昭和46年3月
立野にて昭和46年3月
立野にて昭和46年3月