現有19形式 ⑦ C50  準近代化機

 8620形の改良増備という形で昭和4年に登場した。昭和8年までの5年間に158輌が量産された。汽車会社40輌、川崎車輌31輌、日立製作所30輌、三菱重工29輌、日本車輛24輌と機関車メーカーの全てがほぼ均等に分担している。

亀山機関区で入換作業中のC5075 煙室扉はトラ塗り警戒塗装 昭和46年3月直後に廃車 まったく縁のない東京都足立区に保存されているらしい。
トビー製C50  一応亀山機関区所属にしてみました。
トビー製未塗装のC50

 C50は8620より多少近代的なスタイルになったと言われるがどちらが近代的に見えるかと聞かれても外観からは大した違いはわからず困る。終始地味な存在だったように感じる。関東では小山区のC50。九州行橋区の千鳥マーク入り門鉄デフのC5058などが有名だったが、私が九州にかけつけた時にはすでに廃車だった。

トビー製の8620とC50  どちらが近代的と聞かれても。
C50154 これも記録も記憶もないが亀山機関区のようだ。 本機は小山➡糸崎➡亀山と巡り廃車後は亀山市に保存されていたらしい。
亀山機関区で元気に入換作業中 煙室扉はトラ塗り警戒塗装

蒸気機関車の形式称号

 蒸気機関車の形式称号は1928年(昭和3年)に当時の鉄道省が制定したもので、アルファベットと数字の組み合わせで付けている。その直前までは1909年(明治42年)に制定された数字のみを使用して表記する形式称号規程が使用されていた。8620や9600のように昭和3年以降も旧表記をそのまま使用した機関車もあるし、18900形➡C51、9900形➡D50のように新形式称号に変わった機関車もある。57127例にすると最初のアルファベットは動軸(動輪)数を表している。但し先輪・従輪やテンダー(炭水車)の台車は含まない。
B➡同軸数2
C➡同軸数3
D➡同軸数4
E➡同軸数5
となる。
次の二桁が機関車の種類を表す形式番号
十の位の数が1~4はタンク機関車
十の位の数が5~9はテンダー機関車
※タンク機関車は機関車に燃料と水を搭載する機関車。一般に機関車の中央のボイラ左右に水のタンク、運転席後方に燃料(石炭)と水を積載している。
※テンダー機関車は機関車とは別に燃料と水を搭載する炭水車(テンダー)を連結する機関車。テンダーは、内部では上下に仕切られており、下部に水、上部に燃料(石炭)を積載している。
 その次の数字は車両番号、同一形式内の製造番号。基本的には1から順に番号が振れれるわけだが、実際には製造会社に番号を指定して発注するため、複数の製造会社に発注されている場合は必ずしも竣工順に番号が振られているとは限らない。一番大きい番号はD51で111〇まである。
というわけでC57127は動軸数3軸で炭水車(テンダー)付きの蒸気機関車で127番目に製造された車両であるということになる。
C1196は動軸数3軸のタンク機関車で96番目に製造された車両であるということになる。

C50は昭和4年に登場した。昭和3年に制定した新形式称号規程でC型の5(テンダー機関車)のトップナンバーでC50としたのかと思っていた。

 考えてみると18900形と呼ばれていたC51、9900形と呼ばれたD50はすで登場していたし昭和3年に登場したC53はフライングで新形式称号規程をつかっていたようだ。タンク機は昭和5年登場のC10が最初だ。それ以前の国産タンク機は大正3年(1914)に登場した急勾配専用の4110なので、C10は21年ぶりというか実質的な意味で国産初のタンク機第1号になる。ラストは当然E10ですね。でも、E型のトップでもあります。

大正3年(1914)に登場した急勾配専用の4110 マイクロキャストミズノ製
青梅鉄道公園に保存されているE102 保存機はこれのみ、当時すでにE101は1959年に廃車解体済みだったらしい。汽車会社製造 奥羽本線板谷峠越えの4110形の代替え機として使用、庭坂区➡人吉区➡金沢区➡米原区と渡り歩いている。E10の全5輌は同じ足取りをたどっている。

現有19形式 ⑥ 8620 快速国産標準機

飯山線唯一の蒸気牽引旅客列車222ㇾ 昭和46年3月

 
大正3年(1914)~昭和5年(1930)の17年間に687輌が量産された。9600(貨物用)4110(急勾配用)といった一連の大正時代の国産標準機で急行旅客用とされていた。前記のC11、C57などの形式称号は1928年(昭和3年)に当時の鉄道省が制定したもので、その直前までは1909年(明治42年)に制定された数字のみを使用して表記する形式称号規程が使用されていた。8620や9600のように昭和3年以降も旧表記をそのまま使用した機関車もあるし、18900形➡C51、9900形➡D50のように新形式称号に変わった機関車もある。

五能線に8620(ハチロク)が走っていた頃には無かったウェスパ椿山駅に保存されている78653。日立製作所製造の137輌の一つ。

 8620は東北の五能線・花輪線や九州の松浦線が有名だった。どちらも横浜の中学生が撮影に行くには遠過ぎた。何年か前、憧れの五能線を旅してみたが不老不死温泉の最寄り駅ウェスパ椿山の駅前に日立製作所製78653が保存されていた。動態保存の計画も有るように聞いていたがどうなってしまったのか。数か月後、雪のある季節にウェスパ椿山を訪ねてみたら78653は青いシートに包まれていた。大切に保存されているようで安心したが五能線を混合列車を牽引して走る姿(ありえないか)を見てみたいと思った。因みにこの78653は五能線を走っていた機関車ではなく、日立製作所所縁の茨城県常陸大子区や平区に在籍していて水戸市に保存されていたものを譲り受けたらしい。

ウェスパ椿山に保存されている78653。日立製作所製造の137輌の一つ。蒸気ドームには大きく日立の文字が
トビー製8620デフ付き これは金の箱に入った後期のモデル 後期になってデフ付きとデフなしを選べるようになった。

 五能線は「リゾートしらかみ」というリゾート列車が走り、大人の休日倶楽部パスの時期はなかなか予約が取れない。花輪線には「十和田八幡平四季彩ライン」という二時間ドラマなら絶対殺人事件が起こりそうな愛称がついている。三重連をめあてにファンが押し寄せた龍ヶ森駅は今はなく。安比高原駅となっている。

花輪線のキハ10系
五能線 リゾートしらかみ青池編成HB-E300系
普通のキハ40系の普通列車 これも間もなく新型電気式気動車GV -E 400系に置き換えられるらしい。五能線にはキハ40系のくまげら編成というのもある。
五能線 リゾートしらかみ橅(ブナ)編成HB-E300系 深浦周辺
トビー製8620デフなし これは緑の箱に入った前期のモデル 
青梅鉄道公園に保存されている8620 要するにトップナンバー
飯山線替佐駅付近を走る、飯山線唯一の蒸気牽引旅客列車222ㇾ 昭和46年3月
どちらもトビー製の8620とC50

次回はC50かな

現有19形式 ⑤ C55近代化標準機の先駆

 C51・C54の改良型として、1935年~1937年にかけて合計62輌が製造された旅客用機関車。C54では蒸気ドームと砂箱が以前のC51や8620に比べると近寄ってきている(蒸気ドームが前)がC55から一体となる。蒸気ドームと砂箱を一体にした様式はこのC55に始まった。C55では砂箱が前になっているがその理由はC11の1次型から2時型の変更理由と同じようだ。砂箱の位置は砂撒き管(元栓)の位置でわかる。C55の2次型は流線形として1935年36年に21輌製造された。流線形と言えばC53も有名だが国鉄で最初から流線形蒸気として作られたのはC55のみである。C55の流線形は90km/h以下の速度では空気抵抗減少の効果はほとんどなく、本体がカバーに隠されているため点検装備に要する手間が大変ということで、流線形だった20~40の21輌は戦後一般構造に改造復元された。キャブやテンダー等に名残がみられる。

肥薩線吉松駅にてC5552 無骨と言うかあまりスマートではない門鉄デフ 昭和46年3月
C55天賞堂製 C57との見分け方は動輪がスポークであることドームの形状(C55は後ろ側もほぼ垂直になっている)
C57の一体型ドームは後ろ側が若干斜めになっている C55以降は砂箱(サンドボックス)は前方になってる。
蒸気ドームと砂箱が近くなっているC54(宮沢模型製)とC55  C54は蒸気ドームが前、砂箱が後ろ 一体型になったC55は砂箱が前にあることが砂撒き管(元栓)の位置でわかる。
10系客車を牽くC55 

 魅力的なC55であったが九州の肥薩線も北海道の宗谷本線も横浜の中学生が撮影に行くには遠すぎた。

C57127のこと

山陰線旧保津峡駅を出発する梅小路機関区所属C57127牽引の旅客列車 昭和45年7月

 今回中学生時代(50年前ですね)C57の写真を整理していたら、不思議なことに気づきました。昭和45年の夏、保津峡で出会って撮影したC57127が、昭和46年3月に九州、日豊本線で撮影した写真にも登場しているのです。

昭和46年3月に九州、日豊本線で再び出会った宮崎機関区所属C57127

 気になってC57127をググってみると、確かに「昭和46年春の山陰本線京都口のDL化で梅小路機関区からC57127が宮崎機関区に転属してきた」旨を記載してあるブログを見つけました。ここまでは特にそれほどすごいことではないのですが、なんと、なんとそのブログの主が私の大学時代の友人、大分在住のO君だったのです。O君とは大学時代、授業をサボって毎日のように麻雀をしていた仲間です。彼が筋金入りの鉄ちゃんであることは知っていましたが、毎日顔を合わせてもC57の話をすることはまったくありませんでした。中学・高校の時に同じ機関車を追いかけていたことを全く知らず、数年後大学4年間毎日のようにつるんで過ごし、四十余年後にそれに気づくとは。O君の家には学生時代は実家に彼が結婚してからも新居に泊めてもらい城下ガレイ等をごちそうになったことがあります。これをネタにまた、関サバあたりをごちそうになりに大分まで行きたくなりました。彼のブログによるとC57127は宮崎機関区の在籍は短く、47年10月時点で鹿児島機関区の配置になったようです。

現有19形式 ④ C57 優美の象徴機

梅小路機関区にてC5715(一次型)  DF50とともに 梅小路蒸気機関車館になる以前 昭和45年7月

 C55の改良型として1937年から製造第一次型は138輌(1~138)。第二次型は31輌(139~169)テンダー台車が鋳鋼製から板台枠に変わった。第三次型は戦後の1946年に20輌(170~189)製造。先輪がディスク輪心に、放熱菅がランニングボードの下に移動、ボイラー上、ドームの前にあった逆止弁が右横に下りた。第四次型は1946・1947年に12輌(190~201)製造。ボイラー内径が太く、密閉キャブ、テンダーは船底形・鋳鋼台車、動力逆転機装備、デフは角を落としたタイプ。1次型と並べるとほぼ別形式のよう。

カツミシュパーブラインの未塗装の4次型と塗装済1次型 模型では4次型の方が先に発売されたようだ。

 久保田博氏の「懐想の蒸気機関車」ではC57を優美の象徴機と紹介している。現役末期の頃はよく「貴婦人」と呼ばれていたが、私は恥ずかしくてそんな風に呼んだことはない。まあ、優美。モダンでスマート。大根足とは言わないがちょっとマッチョな足回り。客車を牽いて走る姿がカッコいいです。

3次型C57187 日豊線にて 昭和46年3月
トンネルから出てきたのは4次型のC57192 日豊線にて 昭和46年3月
C571  もちろん1次型オリジナルの12系客車の山口号 
カツミシュパーブラインの1次型に同じくカツミの12系客車を牽かせて
日豊線青井岳にて門鉄デフのC57
客車牽引が様になる青井岳を行く門鉄デフC5736(たぶん)
関西本線亀山機関区で出会った集煙装置・重油タンク付きのC57148 2次型のはずなのでテンダー台車は板台枠のはずなのに鋳鋼製。よくあることでしょうか。
 C57も延べ50輌近くが重油併燃装置を付けた、理由は石炭事情の悪化や煤煙防止などである。しかしはじめは賞用されても、転属などに起因し装置の活用を中止し、竜頭蛇尾に終わったものが多い。国鉄の得意わざでもある。(臼井茂信著 機関車の系譜図4)

 集煙装置や重油タンクは優美なC57の形態を崩すと言って嫌う人も多いと思いますが、私は結構好きです。カメラだとニコンFのアイレベル付きは美しいがフォトミックFTNファインダーにソフトシャッターレリーズAR-1を付けたごちゃごちゃしたのも好きというのと似ています。(わかるかな)

総武線最後のC57105 新小岩機関区にて 昭和45年頃

現有19形式 ③C56

どこだか忘れました。九州です。C56の特徴あるテンダーがわかります。※C56のテンダーより貨車ツム1000形ツム4024に目が行ってしまう友人がいました。この貨車も昭和60年(1985)形式消滅です。

 C12をテンダー機にした形式で、寸法・構造とも共通点が多い簡易線向けのためバック運転を重視して、その際の見通しをよくするためにテンダーが独特の形態をしている。1935年~1939年まで160輌が製造されたが、第二次世界大戦中に最初の90輌が軍用として外地に転出した。戦場にかける橋のタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で活躍した2輌が帰還している。1輌は九段の靖国神社遊就館に静態保存されているC5631。もう1輌は大井川鉄道のきかんしゃトーマスのジェームズ号として運転されたC5644である。国内では91号機がファーストナンバーになる。これは九州の吉松機関区に在籍していた。

 飯山線の替佐駅を出発するC56 111
上桑名川で追い越し撮影したC56111 昭和46年3月
ペンタックスSPに買ったばかりのコムラー925の250㎜相当で撮影。 

泰緬鉄道のこと

 泰緬鉄道と言えばクワイ河や「戦場にかける橋」を思い浮かべますが、映画はフィクションのようです。難工事で現地で強制徴用された労働者や捕虜の連合軍兵士が劣悪な環境と労働条件の中たくさん亡くなったのは事実ですが、イギリス軍の将校が指揮をして橋を完成させるなんてことはありえない事です。ビルマを植民地にしていたイギリスがかつてこの鉄道を計画し、無理だとあきらめた工事を日本軍が完成させたようです。建設の主体は陸軍の鉄道連隊。編成地は千葉県津田沼にありました。演習線が津田沼~松戸にあり戦後京成に譲られ新京成線になっています。新京成線はくねくね曲がっている路線といわれますが、演習線の頃はもっとくねくね迂回するようなルートだったようです。それは演習線のためある程度の距離を確保するためにくねくね迂回するようなルートにしたようです。鉄道連隊の作業場は現在千葉市の千葉公園になっています。戦場にかける橋を造る演習をしたようなコンクリート製の橋脚も残っている。いくつかの連隊が千葉・津田沼からビルマ・バンコクに泰緬鉄道建設のため派遣されていました。

中村精密製C56 小海線の高原列車のイメージ
こちらは鐡道模型社のC56

 C56といえば小海線のキャベツ満載の野菜列車や高原列車、大糸線が人気がありましたが、私の印象に残っているのは母の実家がある石川県輪島市(当時は輪島市ではありませんでした)へ行くときの七尾線の赤いナンバープレートのC56です。

現有19形式 ②C12

C12牽引の高森線混合列車

 簡易線用に設計された小型軽量の近代型タンク機関車。というのがC12です。鉄道ファン1969 12月増刊号によるとC11を一まわり小型にした機関車。C11より運転速度が低いためデフレクターはつけていないが、後年つけた機関車もある。とありました。でも、高森線でも足尾線でも明知線でもデフレクター付きのC12を見たことはありませんでした。デフレクターの付いていないタンク機関車はC12、付いているのはC11と思い込んでいましたが、見つけてしまいました。

 木曽福島で見つけたデフレクター付きのC12199 転車台から入れ替え作業に
残念ながら煙室戸はトラ塗。当時の中学校写真部の部長と副部長で記念撮影
中村精密のC12 デフレクターを付けたくなります。

 C12は1932年~1947年にかけて293輌製造され、長期にわたったにもかかわらず、形態的な変化があまりないのがC11と違うところ。でも、模型の中では多少の形態変化がありました。

未塗装の中村精密C12 前が後期 後ろが前期

 我が家に何輌か在籍している中村精密のC12を比べてみると、砂撒き管の取り回しが違ったり水タンクの蓋等がディティールアップされたりしています。箱も後期のものはC11と同じ立派なものです。前期はオレンジ色の小さな箱ですが。

デフレクターを付つけて本線を客車牽引する姿を見たくなりました。

 このC12にテンダー(炭水車)を付けた機関車にしたのがC56です。次はC56ですかね。

木曽福島にもいました。これもトラ塗ですけど

現有19形式 ① C11 タンク機の近代化版

 私が中学生時代のバイブル、鉄道ファン臨時増刊号の蒸気機関車撮影地ガイド 
昭和44年12月増刊号と昭和46年1月増刊号

 私が中学生の頃、現有19形式という言葉がありました。昭和44年の10月ダイヤ改正時点で国鉄の蒸気機関車が19形式残っていたのです。残念ながら次の45年10月ダイヤ改正時点では、C59 C60が姿を消し、17形式になってしまうのですが。

 鉄道模型に興味をもった頃、いつか現有19形式を全部揃えてみたいなと思ったものです。コロナ騒動の超自粛ムードの中、STAYHOMEでかつて収集した鉄道模型を整理分類してみようと思いました。

陽光浴びたアドリアチック C11

左がトビー製C11 右が中村精密性C11 トビーは2次形で中村精密は3次形。水タンクの大きさと炭庫の上辺が異なります。

  どちらもC11ですが、若干違いがあります。C11は4種に大別され、第1次形23両(1~23)蒸気ドームが砂箱の前にある。第2次形以降で位置を逆にしたのは、急停車時にボイラー水が蒸気ドームに侵入するのを防止するためらしい。新しい形式にも踏襲されている。第2次形117両(24~140)第3次形106両(141~246)水タンクが大きくなり炭庫上辺が直線。第4次形は戦時設計機で角型ドーム。戦後は元に戻したようです。新橋のSL広場のC11は角型ドームの4次形ですね。

 どちらもトビー製の2次形。トビー製はシリンダーブロックも真鍮製。中村精密はダイキャスト。真鍮製の方が高級感があり塗りたくない感じです。
中村精密のC11は立派な箱に入ってました。
棚に飾っておいたら埃だらけになってましたが、大井川鉄道のC11も3次形
青梅鉄道公園の1号機は当然1次形。この写真では蒸気ドームと砂箱の位置が確認できませんね。
昭和45年7月 保津峡へ向かう山陰本線車窓から見えた梅小路機関区 一番左が梅小路機関区のC1196 手前は休車中の28698

 現有19形式についてまとめるために参考にしたのは、鉄道ファン臨時増刊号の蒸気機関車撮影地ガイド 昭和44年12月増刊号と昭和46年1月増刊号以外にも次のような書籍を参考にしています。

久保田 博 著 懐想の蒸気機関車
機関車の系譜図1~4(主に4ですね) 臼井茂信著
蒸気機関車スタイルブックと鉄道模型趣味別冊蒸気機関車スタイルブックどちらも 機芸出版社
その他いろいろ。
鉄道模型については 松本吉之著 鉄道模型考古学 ネコ・パブリッシング
私の秘密基地の模型棚

麺を啜る

 半年以上投稿をサボってましたが、昨年の10月に喉頭癌が再発し、喉頭全摘手術を受けました。当然声は出なくなるんですが、それ以外にもいろいろ不都合が出てきます。病気の話で恐縮ですが喉頭全摘すると気管は首に穴をあけて呼吸します。要するに気管は口とも鼻ともつながってないのです。それでどんな不都合があるかというと、麺がすすれない。麺をフーフー吹けない。クンクンとにおいが嗅げない。あと、なんでだか説明できませんが熱いものが口の中でいつまでも熱い。(気管につながってないから熱の逃げ場所がないのかな)他にもあるのですがとりあえず今まで好きだった細麺のラーメンをツルツル啜ることができなくなったのが悲しいです。

支那そばや鶴ヶ峰 塩ラーメン

今までは何も意識せず、細麺のラーメンをツルツル啜ってましたがこれができないと、ラーメンって食べにくい。まして、フーフーできなくて熱いのが苦手となるとなおさら。

かつてよく食べたのは故佐野実氏系のラーメン。ツルツルとのど越しの良い細麺が好きでした。支那そばや鶴ヶ峰店のマスターは佐野氏の下で仕事をしていて独立したそうですが、佐野氏はテレビのイメージ「ラーメンの鬼」とは違って面倒見の良い優しい方だったと言ってました。支那そばやは戸塚に佐野氏の奥さんがやってる本店があるのですが、仕入れも仕込みも全く別で各店自由にやっているとのことでした。横浜では支那そばや鶴ヶ峰店以外にも、反町のShiNaChiku亭やラーメン星印が佐野氏の下で仕事をしていた方の店です。

支那そばや鶴ヶ峰店 しょう油ラーメン
ラーメン星印 特製醤油らぁ麺

 ラーメン星印は佐野氏「数を売るんじゃない 味を売れ!」が掲げられ矢沢永吉の曲が流れる店です。マスターは新横浜のラーメン博物館の支那そばやの店長をしていたそうです。

 ShiNaChiku亭は

特塩ラーメンが好みです。どちらもワンタンがおいしいです。醤油より塩のほうが麺が細い感じがしたのですが、醤油は20番、塩は22番とのことでした。

ShiNaChiku亭 塩特ラーメン

SLばんえつ物語

 久しぶりに青春18きっぷでSLばんえつ物語を追いかけました。

喜多方に近い濁川橋梁 上り列車煙少ない。

「東京には空がない」と思えるくらいきれいな空、きれいな雲でした。

会津若松を出発する下り列車。やっぱり煙少ない。

 久しぶりに見るC57180はきれいに磨かれていました。この煙の少なさは燃料とも関係あるんですかね。現役時代とは違いますね。

 保津峡を出発するC57127牽引の京都行上り列車。煙の量が違いますね。昭和45年

 幹線・亜幹線の旅客列車で様になるのはC57以上ですね。改造された12系もいいですが、SLやまぐちが始まった頃の国鉄時代と同じ塗装の12系も見たいです。

オリジナル12系のSLやまぐち