現有19形式 ⑪ 日本の代表蒸気 D51

 D51は国鉄の機関車の中でも最も多い輌数が生産され、日本中で最後まで多数が活躍した機関車である。昭和40年代中頃、C62やC57 牽引の旅客列車を狙うファンからは犬のクソ扱いされるような存在でもあった。C62重連の急行ニセコを狙って遥々北海道まで行って、やっと来たと思ったら、どういうわけか重連の前がD51だった時は石を投げたくなったと言う友人もいた。機関車に石を投げてはいけません。

横浜機関区扇形機関庫の前で転車台に重油併燃装置付D51130
昭和45(1969)年12月29日
D51130は長岡から新鶴見に配属されてきた。高島線では唯一重油タンクをドームの後ろに付けて(テンダーについているタイプは他にもいた)いた。
鶴見川鉄橋手前で111系横須賀線とすれ違うD51130。当時横須賀線は東海道線の線路を走っていた。現在はD51の走っていた貨物線を走っている。鶴見駅を過ぎた辺りで新しくできた羽沢横浜国大方面に分岐する。 昭和45(1970)年1月6日
新小岩のスターD5121汽車会社製造山北に配属御殿場線で活躍。新鶴見に在籍したこともあった。 首都圏では私が撮影した唯一のナメクジだった。鋳鋼製テンダー台車や煙室前端が丸味をもっているのがわかる。Wシールドビームですが。昭和45(1970)年1月15日 新小岩機関区 
給炭完了で入換作業に向かうD5121 
昭和45(1970)年1月15日 新小岩機関区

 D51は1936~1945年にかけて1115輌が製造された。国鉄最初の箱型輪新(ボックス)動輪を採用しC57と並び近代国鉄形蒸気を確立させた貨物用機関車である。1936~1938年に製造された95輌は、煙突、給水温め器、砂箱、蒸気ドームを一体にカバーした通称ナメクジタイプである。(その内2輌はキャブまで延長通称スーパーナメクジ)丸味をもつ煙室前端、動力逆転機、鋳鋼製テンダー台車などの特徴がある。量産機は1937~1944年にかけて859輌が製造された。ドームは普通の一体型、給水温め器は煙突前方(おでこ)に横に、逆転機は一部を除いて手動式に戻った。テンダー台車も大部分は板台枠。1944~1945年は戦時設計で161輌。船底形テンダー、ドームの簡素化(蒲鉾形ドーム)、ディスク先従輪などの特徴がある。

D51って何輌あるんだっけと考えてしまうD511150 立派なカマボコドームだがこの写真では確認できない。昭和46年3月
Ⅾ511062は1000番台でも標準ドームだった。筑豊本線 昭和46年3月

 Ⅾ51は1115輌が国鉄に在籍していたが955~1000は欠番になっている。戦時型を1001から付番して区別している。そのため国鉄D51のラストナンバーは1161(日車製1967年東能代区で廃車)になる。筑豊本線ではD60 以外にも様々なD51 と出会うことができた。

筑豊本線のナメクジ D5142汽車会社製 東北時代は重油併燃装置付きだったが直方で取り外されたようだ。

D51の原設計の特徴、煙突、給水温め器、砂箱、蒸気ドームを一体カバーに収めた半流線形はとても斬新なデザインだと思う。しかし、後の基本設計では重量配分の改善と給水温め器の検修の理由で昭和13年度以降の新製より給水温め器を煙突の前に置くように変更された。給水温め器の位置は配管や点検・検修ののためには前デッキ上が望ましいわけだが、D51の前デッキには先台車のバネ装置があるため、煙突の前に置かざるを得なかったようである。よって日本の蒸気機関車の代表・代名詞デコイチはオデコに給水温め器を付けた姿が普通のデコイチということになっている。だから私は1次型をデゴイチ、標準型・戦時型をデコイチと呼んでいる。デゴイチ、デコイチどっちでもいいですね。

Ⅾ5110川崎車輌製 新製後鳥栖に配属終始九州の罐 直方区最終在籍蒸気の1輌 行橋市で保存されていたが、のちに直方汽車倶楽部が引き取り修復作業中 昭和46年3月
菜の花と団結D511155 川崎車輌製 昭和46年3月
ピースマークのD51906三菱重工業製後藤式集煙装置付きとD51614日本車両製鷹取式集煙装置付き 関西本線加太駅
D51906 集煙装置(この集煙装置は鷹取式に似ているが後藤式の後期型らしい)と重油タンクで目立たないがカマボコドーム。1000番台ではありませんが、D51はいろいろあります。準戦時形と言われる106輌 D51746・747 846~949号で量産形から戦時形に移行する過渡期のD51。D51906はデフに煙草のピースの鳩マークを付けた機関車。近畿圏の臨時旅客列車牽引によく駆り出されていたようだ。この時は青いスハ43系だったが、12系やオールグリーンの臨客も牽引している。

夜のD51

D51549 中央西線塩尻駅にて長野工場で新製 当然長工式集煙装置昭和45年篠ノ井線お別れ列車を牽引。 長野市に保存されている(長工式集煙装置は取り外し済)昭和46年3月
D51402 日車製長工式集煙装置付き中央西線塩尻駅にて  
昭和46年3月
キャブに乗せてもらって火室を撮影、夜だから周りは何だかわからない。
天賞堂製C622と並ぶ北海道形切り詰めデフのアダチ製D51 (本物とは逆にD61を一軸従台車化したもの)
カツミシュパーブラインのⅮ51を北海道タイプの切り詰めデフに交換。ロストワックス製パーツを付けた。

新鶴見所属横浜機関区のⅮ51

D51652日立製作所製 新製後山北区(山北区廃止後は国府津区)御殿場線で活躍していたらしい。その後新鶴見区所属昭和46(1970)年8月に廃車。神奈川県内で一生を過ごした機関車だった。昭和46(1970)年1月
給炭中のⅮ51451汽車会社製 昭島市昭和公園に保存されているが状態はあまりよくないらしい。 
昭和45(1969)年12月29日
横浜機関区給炭台前のドーム後ろの重油タンクⅮ51130とテンダーに重油タンクのⅮ51723日立製作所製
転車台上のⅮ51130日立製作所製 昭和46(1970)年1月

現有19形式 ⑩ 画期的大型貨物機の軸重軽減改造によって生まれたD60 

筑豊本線折尾~中間間を行く 門鉄デフD6065 日立製作所製D50191より改造 昭和46年3月 「昭和45年10月以降大分から直方に転出した罐だ」と O君が教えてくれました。

 D50の軸重軽減改造によって生まれたD60。大正生まれに鋳鋼製の2軸従台車は違和感がと言う人もいるが私は気にしない。本州では磐越東線で石灰石・セメント輸送に活躍していたが、すでに九州だけで見られる罐になっていた。

直方機関区のD6046川崎造船所(川崎車輌)の丸っこい砂箱 大きな給炭塔にびっくり 昭和46年3月
D60の重連石炭列車だと思ったら後ろはD51だった。ニセコのC62重連を狙っていたら前がD51だったほどはがっかりはしない。直方区のD6027日立製作所製D50237から改造 筑豊本線折中間~筑前垣生間 昭和46年3月
直方区のD6022 汽車会社製D5085から改造、角張った砂箱 D60らしい長大編成に見える 筑豊本線折尾~中間 昭和46年3月
菜の花の季節だった D6027は日立製作所製D50237から改造角張った砂箱? 昭和46年3月
D6027 菜の花ボケ過ぎ 昭和46年3月
小倉工式門デフD6067ブレブレ 大分運転所所属 筑豊本線遠賀川鉄橋付近 昭和46年3月
D6022 汽車会社製D5085より改造 角張った砂箱 筑豊本線遠賀川鉄橋 昭和46年3月
大分運転所から直方区に来たD6062これもブレブレ 日立製作所製D50229より改造、砂箱は角張っているように見える。
宮沢模型製D60 宮沢模型製D50より2軸従台車にして改造 角張った砂箱
宮沢模型製D6027 宮沢模型製日立製作所製D50237から2軸従台車にして改造 角張った砂箱
単機のD6028これは日車製Ⅾ50306より改造

https://c57115.hatenablog.com/

D60について詳しくはO君のブログ「転轍機」をご覧ください。

現有19形式 ⑨ 画期的大型貨物機 D50

宮沢模型製D50 砂箱は角ばってる 

 大正12年(1923)に国産標準機第1号の9600を上回る大型強力機の要請に応じて新製された。大きな砂箱、化粧煙突、前面デッキにの上にむき出しで乗った給水温め器が印象的な大正の名機。9600に比べて一まわり大きな動輪。従輪がついてがっちりと安定した感じを受ける。スピードアップのための動輪径の拡大と出力アップのための大型ボイラに1D1ミカド形(明治中期にアメリカから輸入された9700がミカド形の元)軸配置が採用された。新製時には9900形式と呼称されたが昭和3年の機関車称号規定の改正でD50形式と改められた。メーカーは川崎車両198輌、日立製作所80輌、汽車会社69輌、日本車両33輌の380輌で川崎車両の比率が高い。D50は貨物または勾配線用機であるため搭載する砂容量を増大し、1個にまとめたため大型化している。砂容量は9600の約三倍近くで、D51よりも多く搭載したようである。勾配または貨物用では砂の使用は粘着力増大の奥の手であり、また命綱となる場合もあったので機関士には搭載量が多いほうが好ましかったようである。超大型の缶上式で製造会社によって標準的な設計を変更しその社の特色を出している。汽車会社製の砂箱は角張っていて、川崎車輌製は丸味をもっている。いずれにしても「ごはん蒸し」の異名もあったそうだ。

どちらも宮沢模型製のⅮ50 門鉄デフ付きもあった。どちらも汽車会社製のような角張った砂箱だ。後に川崎車輌製の丸味をもった砂箱のタイプも発売されたらしい。

機関車軸配置

日本国鉄式通称国鉄テンダー機関車
1Cモーガル8620 C50 C56
1C1プレーリーC58
2C2ハドソンC60 C61 C62
2C1パシフィックC55 C57 C59
1Dコンソリデーション9600
1D1ミカドD50 D51 D61
1D2バークシャーD60 D61 D62

現有19形式 ⑧ 強力国産標準機 9600

直方機関区で入換作業中の79657 昭和46年3月

 9600は大正2年(1913)が製造初年で14年間に770輌が量産された。これは翌大正3年が製造初年の兄弟機8620の687輌を上回り、大正後期に申請されたC51の289輌、D50の380輌を凌駕している。これは国鉄の機関車最大新製輌数の記録1115輌のD51に次ぐ記録である。メーカー別の新製輌数は川崎造船所(後の川崎車両)が全体の約90%を占める689輌。残りが汽車会社69輌と小倉工場15輌で分担している。一方兄弟機の8620は汽車会社、日立製作所を中心としている。これは車両の新製において同じメーカーで毎年同一輌数に平準化して生産するのが品質の確保と新製コストの低減を計るために効果的であるという考えに基づいている。現有19形式の中でも最古の形式でしぶとく残った。

横浜新港埠頭の赤レンガ倉庫前の9600 私が高校生の頃 大正3年の写真 ウソそれじゃあ還暦のじいさんだろうって言っていた昭和47年頃 本当に還暦過ぎのじいさんになってこの写真を見るとは思わなかった。ネジ式連結器のバッファーは鋳物のダミーだった。本物の9600(形式9600のトップナンバー)は川崎造船所製で軍供出で中国大陸に渡っている。
ナンバープレートは形式入りの59631になっているがこれもウソ。同じ機関車のナンバープレートを取り換えているのを見てしまった。

 当時の新港埠頭(赤レンガ倉庫周辺)は線路だらけ。架線はなくDD13が走っているのは見たことがある。入り口は万国橋しかなく、赤レンガ倉庫を撮影したいときは橋にある詰め所で住所氏名を記入して撮影の許可をもらって入った。埠頭内は外国の船員が歩いているだけで赤レンガ倉庫は中国産のお茶の匂いがすごかった。9600は映画撮影のためのものだったが、どれくらいお金をかけたのだろう。

D51がいなくなった横浜機関区の扇形機関庫に長野方面(たぶん)から回送されて来たキューロク。これが9600に化ける。ナンバーは足回りの刻印でわかったがその写真が見つからない。
青梅鉄道公園に保存されている9608
天賞堂製9600
立野スイッチバックを行く39680
立野にて 9600が客車を牽いて来た。門鉄デフ、ナンバーは79602 熊本区の所属北海道に渡り、追分機関区の火事で焼けてしまったらしい。昭和46年3月
立野にて昭和46年3月
立野にて昭和46年3月

現有19形式 ⑦ C50  準近代化機

 8620形の改良増備という形で昭和4年に登場した。昭和8年までの5年間に158輌が量産された。汽車会社40輌、川崎車輌31輌、日立製作所30輌、三菱重工29輌、日本車輛24輌と機関車メーカーの全てがほぼ均等に分担している。

亀山機関区で入換作業中のC5075 煙室扉はトラ塗り警戒塗装 昭和46年3月直後に廃車 まったく縁のない東京都足立区に保存されているらしい。
トビー製C50  一応亀山機関区所属にしてみました。
トビー製未塗装のC50

 C50は8620より多少近代的なスタイルになったと言われるがどちらが近代的に見えるかと聞かれても外観からは大した違いはわからず困る。終始地味な存在だったように感じる。関東では小山区のC50。九州行橋区の千鳥マーク入り門鉄デフのC5058などが有名だったが、私が九州にかけつけた時にはすでに廃車だった。

トビー製の8620とC50  どちらが近代的と聞かれても。
C50154 これも記録も記憶もないが亀山機関区のようだ。 本機は小山➡糸崎➡亀山と巡り廃車後は亀山市に保存されていたらしい。
亀山機関区で元気に入換作業中 煙室扉はトラ塗り警戒塗装

蒸気機関車の形式称号

 蒸気機関車の形式称号は1928年(昭和3年)に当時の鉄道省が制定したもので、アルファベットと数字の組み合わせで付けている。その直前までは1909年(明治42年)に制定された数字のみを使用して表記する形式称号規程が使用されていた。8620や9600のように昭和3年以降も旧表記をそのまま使用した機関車もあるし、18900形➡C51、9900形➡D50のように新形式称号に変わった機関車もある。57127例にすると最初のアルファベットは動軸(動輪)数を表している。但し先輪・従輪やテンダー(炭水車)の台車は含まない。
B➡同軸数2
C➡同軸数3
D➡同軸数4
E➡同軸数5
となる。
次の二桁が機関車の種類を表す形式番号
十の位の数が1~4はタンク機関車
十の位の数が5~9はテンダー機関車
※タンク機関車は機関車に燃料と水を搭載する機関車。一般に機関車の中央のボイラ左右に水のタンク、運転席後方に燃料(石炭)と水を積載している。
※テンダー機関車は機関車とは別に燃料と水を搭載する炭水車(テンダー)を連結する機関車。テンダーは、内部では上下に仕切られており、下部に水、上部に燃料(石炭)を積載している。
 その次の数字は車両番号、同一形式内の製造番号。基本的には1から順に番号が振れれるわけだが、実際には製造会社に番号を指定して発注するため、複数の製造会社に発注されている場合は必ずしも竣工順に番号が振られているとは限らない。一番大きい番号はD51で111〇まである。
というわけでC57127は動軸数3軸で炭水車(テンダー)付きの蒸気機関車で127番目に製造された車両であるということになる。
C1196は動軸数3軸のタンク機関車で96番目に製造された車両であるということになる。

C50は昭和4年に登場した。昭和3年に制定した新形式称号規程でC型の5(テンダー機関車)のトップナンバーでC50としたのかと思っていた。

 考えてみると18900形と呼ばれていたC51、9900形と呼ばれたD50はすで登場していたし昭和3年に登場したC53はフライングで新形式称号規程をつかっていたようだ。タンク機は昭和5年登場のC10が最初だ。それ以前の国産タンク機は大正3年(1914)に登場した急勾配専用の4110なので、C10は21年ぶりというか実質的な意味で国産初のタンク機第1号になる。ラストは当然E10ですね。でも、E型のトップでもあります。

大正3年(1914)に登場した急勾配専用の4110 マイクロキャストミズノ製
青梅鉄道公園に保存されているE102 保存機はこれのみ、当時すでにE101は1959年に廃車解体済みだったらしい。汽車会社製造 奥羽本線板谷峠越えの4110形の代替え機として使用、庭坂区➡人吉区➡金沢区➡米原区と渡り歩いている。E10の全5輌は同じ足取りをたどっている。

現有19形式 ⑥ 8620 快速国産標準機

飯山線唯一の蒸気牽引旅客列車222ㇾ 昭和46年3月

 
大正3年(1914)~昭和5年(1930)の17年間に687輌が量産された。9600(貨物用)4110(急勾配用)といった一連の大正時代の国産標準機で急行旅客用とされていた。前記のC11、C57などの形式称号は1928年(昭和3年)に当時の鉄道省が制定したもので、その直前までは1909年(明治42年)に制定された数字のみを使用して表記する形式称号規程が使用されていた。8620や9600のように昭和3年以降も旧表記をそのまま使用した機関車もあるし、18900形➡C51、9900形➡D50のように新形式称号に変わった機関車もある。

五能線に8620(ハチロク)が走っていた頃には無かったウェスパ椿山駅に保存されている78653。日立製作所製造の137輌の一つ。

 8620は東北の五能線・花輪線や九州の松浦線が有名だった。どちらも横浜の中学生が撮影に行くには遠過ぎた。何年か前、憧れの五能線を旅してみたが不老不死温泉の最寄り駅ウェスパ椿山の駅前に日立製作所製78653が保存されていた。動態保存の計画も有るように聞いていたがどうなってしまったのか。数か月後、雪のある季節にウェスパ椿山を訪ねてみたら78653は青いシートに包まれていた。大切に保存されているようで安心したが五能線を混合列車を牽引して走る姿(ありえないか)を見てみたいと思った。因みにこの78653は五能線を走っていた機関車ではなく、日立製作所所縁の茨城県常陸大子区や平区に在籍していて水戸市に保存されていたものを譲り受けたらしい。

ウェスパ椿山に保存されている78653。日立製作所製造の137輌の一つ。蒸気ドームには大きく日立の文字が
トビー製8620デフ付き これは金の箱に入った後期のモデル 後期になってデフ付きとデフなしを選べるようになった。

 五能線は「リゾートしらかみ」というリゾート列車が走り、大人の休日倶楽部パスの時期はなかなか予約が取れない。花輪線には「十和田八幡平四季彩ライン」という二時間ドラマなら絶対殺人事件が起こりそうな愛称がついている。三重連をめあてにファンが押し寄せた龍ヶ森駅は今はなく。安比高原駅となっている。

花輪線のキハ10系
五能線 リゾートしらかみ青池編成HB-E300系
普通のキハ40系の普通列車 これも間もなく新型電気式気動車GV -E 400系に置き換えられるらしい。五能線にはキハ40系のくまげら編成というのもある。
五能線 リゾートしらかみ橅(ブナ)編成HB-E300系 深浦周辺
トビー製8620デフなし これは緑の箱に入った前期のモデル 
青梅鉄道公園に保存されている8620 要するにトップナンバー
飯山線替佐駅付近を走る、飯山線唯一の蒸気牽引旅客列車222ㇾ 昭和46年3月
どちらもトビー製の8620とC50

次回はC50かな

現有19形式 ⑤ C55近代化標準機の先駆

 C51・C54の改良型として、1935年~1937年にかけて合計62輌が製造された旅客用機関車。C54では蒸気ドームと砂箱が以前のC51や8620に比べると近寄ってきている(蒸気ドームが前)がC55から一体となる。蒸気ドームと砂箱を一体にした様式はこのC55に始まった。C55では砂箱が前になっているがその理由はC11の1次型から2時型の変更理由と同じようだ。砂箱の位置は砂撒き管(元栓)の位置でわかる。C55の2次型は流線形として1935年36年に21輌製造された。流線形と言えばC53も有名だが国鉄で最初から流線形蒸気として作られたのはC55のみである。C55の流線形は90km/h以下の速度では空気抵抗減少の効果はほとんどなく、本体がカバーに隠されているため点検装備に要する手間が大変ということで、流線形だった20~40の21輌は戦後一般構造に改造復元された。キャブやテンダー等に名残がみられる。

肥薩線吉松駅にてC5552 無骨と言うかあまりスマートではない門鉄デフ 昭和46年3月
C55天賞堂製 C57との見分け方は動輪がスポークであることドームの形状(C55は後ろ側もほぼ垂直になっている)
C57の一体型ドームは後ろ側が若干斜めになっている C55以降は砂箱(サンドボックス)は前方になってる。
蒸気ドームと砂箱が近くなっているC54(宮沢模型製)とC55  C54は蒸気ドームが前、砂箱が後ろ 一体型になったC55は砂箱が前にあることが砂撒き管(元栓)の位置でわかる。
10系客車を牽くC55 

 魅力的なC55であったが九州の肥薩線も北海道の宗谷本線も横浜の中学生が撮影に行くには遠すぎた。

C57127のこと

山陰線旧保津峡駅を出発する梅小路機関区所属C57127牽引の旅客列車 昭和45年7月

 今回中学生時代(50年前ですね)C57の写真を整理していたら、不思議なことに気づきました。昭和45年の夏、保津峡で出会って撮影したC57127が、昭和46年3月に九州、日豊本線で撮影した写真にも登場しているのです。

昭和46年3月に九州、日豊本線で再び出会った宮崎機関区所属C57127

 気になってC57127をググってみると、確かに「昭和46年春の山陰本線京都口のDL化で梅小路機関区からC57127が宮崎機関区に転属してきた」旨を記載してあるブログを見つけました。ここまでは特にそれほどすごいことではないのですが、なんと、なんとそのブログの主が私の大学時代の友人、大分在住のO君だったのです。O君とは大学時代、授業をサボって毎日のように麻雀をしていた仲間です。彼が筋金入りの鉄ちゃんであることは知っていましたが、毎日顔を合わせてもC57の話をすることはまったくありませんでした。中学・高校の時に同じ機関車を追いかけていたことを全く知らず、数年後大学4年間毎日のようにつるんで過ごし、四十余年後にそれに気づくとは。O君の家には学生時代は実家に彼が結婚してからも新居に泊めてもらい城下ガレイ等をごちそうになったことがあります。これをネタにまた、関サバあたりをごちそうになりに大分まで行きたくなりました。彼のブログによるとC57127は宮崎機関区の在籍は短く、47年10月時点で鹿児島機関区の配置になったようです。

現有19形式 ④ C57 優美の象徴機

梅小路機関区にてC5715(一次型)  DF50とともに 梅小路蒸気機関車館になる以前 昭和45年7月

 C55の改良型として1937年から製造第一次型は138輌(1~138)。第二次型は31輌(139~169)テンダー台車が鋳鋼製から板台枠に変わった。第三次型は戦後の1946年に20輌(170~189)製造。先輪がディスク輪心に、放熱菅がランニングボードの下に移動、ボイラー上、ドームの前にあった逆止弁が右横に下りた。第四次型は1946・1947年に12輌(190~201)製造。ボイラー内径が太く、密閉キャブ、テンダーは船底形・鋳鋼台車、動力逆転機装備、デフは角を落としたタイプ。1次型と並べるとほぼ別形式のよう。

カツミシュパーブラインの未塗装の4次型と塗装済1次型 模型では4次型の方が先に発売されたようだ。

 久保田博氏の「懐想の蒸気機関車」ではC57を優美の象徴機と紹介している。現役末期の頃はよく「貴婦人」と呼ばれていたが、私は恥ずかしくてそんな風に呼んだことはない。まあ、優美。モダンでスマート。大根足とは言わないがちょっとマッチョな足回り。客車を牽いて走る姿がカッコいいです。

3次型C57187 日豊線にて 昭和46年3月
トンネルから出てきたのは4次型のC57192 日豊線にて 昭和46年3月
C571  もちろん1次型オリジナルの12系客車の山口号 
カツミシュパーブラインの1次型に同じくカツミの12系客車を牽かせて
日豊線青井岳にて門鉄デフのC57
客車牽引が様になる青井岳を行く門鉄デフC5736(たぶん)
関西本線亀山機関区で出会った集煙装置・重油タンク付きのC57148 2次型のはずなのでテンダー台車は板台枠のはずなのに鋳鋼製。よくあることでしょうか。
 C57も延べ50輌近くが重油併燃装置を付けた、理由は石炭事情の悪化や煤煙防止などである。しかしはじめは賞用されても、転属などに起因し装置の活用を中止し、竜頭蛇尾に終わったものが多い。国鉄の得意わざでもある。(臼井茂信著 機関車の系譜図4)

 集煙装置や重油タンクは優美なC57の形態を崩すと言って嫌う人も多いと思いますが、私は結構好きです。カメラだとニコンFのアイレベル付きは美しいがフォトミックFTNファインダーにソフトシャッターレリーズAR-1を付けたごちゃごちゃしたのも好きというのと似ています。(わかるかな)

総武線最後のC57105 新小岩機関区にて 昭和45年頃

現有19形式 ③C56

どこだか忘れました。九州です。C56の特徴あるテンダーがわかります。※C56のテンダーより貨車ツム1000形ツム4024に目が行ってしまう友人がいました。この貨車も昭和60年(1985)形式消滅です。

 C12をテンダー機にした形式で、寸法・構造とも共通点が多い簡易線向けのためバック運転を重視して、その際の見通しをよくするためにテンダーが独特の形態をしている。1935年~1939年まで160輌が製造されたが、第二次世界大戦中に最初の90輌が軍用として外地に転出した。戦場にかける橋のタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で活躍した2輌が帰還している。1輌は九段の靖国神社遊就館に静態保存されているC5631。もう1輌は大井川鉄道のきかんしゃトーマスのジェームズ号として運転されたC5644である。国内では91号機がファーストナンバーになる。これは九州の吉松機関区に在籍していた。

 飯山線の替佐駅を出発するC56 111
上桑名川で追い越し撮影したC56111 昭和46年3月
ペンタックスSPに買ったばかりのコムラー925の250㎜相当で撮影。 

泰緬鉄道のこと

 泰緬鉄道と言えばクワイ河や「戦場にかける橋」を思い浮かべますが、映画はフィクションのようです。難工事で現地で強制徴用された労働者や捕虜の連合軍兵士が劣悪な環境と労働条件の中たくさん亡くなったのは事実ですが、イギリス軍の将校が指揮をして橋を完成させるなんてことはありえない事です。ビルマを植民地にしていたイギリスがかつてこの鉄道を計画し、無理だとあきらめた工事を日本軍が完成させたようです。建設の主体は陸軍の鉄道連隊。編成地は千葉県津田沼にありました。演習線が津田沼~松戸にあり戦後京成に譲られ新京成線になっています。新京成線はくねくね曲がっている路線といわれますが、演習線の頃はもっとくねくね迂回するようなルートだったようです。それは演習線のためある程度の距離を確保するためにくねくね迂回するようなルートにしたようです。鉄道連隊の作業場は現在千葉市の千葉公園になっています。戦場にかける橋を造る演習をしたようなコンクリート製の橋脚も残っている。いくつかの連隊が千葉・津田沼からビルマ・バンコクに泰緬鉄道建設のため派遣されていました。

中村精密製C56 小海線の高原列車のイメージ
こちらは鐡道模型社のC56

 C56といえば小海線のキャベツ満載の野菜列車や高原列車、大糸線が人気がありましたが、私の印象に残っているのは母の実家がある石川県輪島市(当時は輪島市ではありませんでした)へ行くときの七尾線の赤いナンバープレートのC56です。