
戦時中大量に増備されたD52は、終戦後の貨物輸送の激減によってかなり余剰になり各機関区に赤錆びたD52が放置された。この余剰D52の旅客機への改造であった。この改造名義の新製で生まれたのが栄光の超大型旅客機C62で、49輌のD52が転用された。軸配置2C1のパシフィックC 59より一まわり重くなるため軸配置を2C2としなくてはならず狭軌では不可能に近いと言われていた2軸従台車を巧妙なっ設計によって実現している。D52の超大型ボイラを1750mmの大動輪に載せ国鉄の機関車では最高のボイラ中心高を採用している。砂撒き管はボイラ・ラッキングの下に配管されているのが原形だが後の改装で実態は様々な変化がある。C62のドームは汽車会社製(37~49)は前後端同形(前後対象)日立製作所(1~21)・川崎車両製(22~36)は後部がややなだらかだ。

私が中学生だった昭和40年代中頃は蒸気機関車終焉に近づいていた。北海道のC62はツバメマークをデフレクターに残したC622がスワローエンジェルと呼ばれ熱狂的な人気で「2号機にあらざれば蒸気(カマ)にあらず」といった雰囲気だった。ニセコのC62重連の撮影でも2号機が前だと当たり、都合によりⅮ51が前に付いたりすると大ブーイングだったようだ。


改造所別機関車番号は
日立製作所(21輌)C621~21
川崎車輌(15輌)C6222~C6236
汽車製造(13輌)C6237~C6249

C62のストカーは国鉄動力車課と民間の共同で、給炭部分は発動機製造株式会社(後のダイハツ)、機関部は汽車会社が担当している。発動機製造会社は現大阪大学の研究者を中心に創立された会社で、後に〇〇発動機という後発メーカーがいくつもできたので大阪の発動機、略して大発(ダイハツ)になったそうだ。そう言えば昔ダイハツのオート三輪には大阪城のエンブレムが付いていたような。ミゼットはどうだったでしょう。
