現有19形式 ⑯ 最強の超大型貨物機D52 

山北駅の南側沼津方面側に保存されたD5270 昭和46年頃

 D52が登場するまで、旅客機は重幹線にC53、C59を、幹線にC51、C57を重幹線、幹線ともD50 、D51の単一形式としていた。これは、D51、D50が出力的にC53、C59に匹敵していたためと考えられる。しかし、設計的にはD51の軸重は15tにも足らず、C59の16tに比べると重幹線に対して貨物機を大型化・強力化し得る余地が残されていたのである。
 鉄道輸送は長大列車に編成できることが他の陸上交通機関のまねのできない優れた特色である。よって列車単位はなるべく大きくした方が輸送力を増大でき、かつ輸送コストも低減できる。重幹線用の貨物機としてD51を上まわる超大型機は昭和14年頃から研究されていた。第二次大戦の末期、戦時輸送強化ののために製造された国鉄最強の貨物用機関車D52は生まれるべくして生まれた機関車であったと言える。

山北機関区が廃止されたのは昭和18年、戦争中の話 それ以後も箱根越えの補機の基地として転車台もあり、いつもD51やD52の煙が見えた。
駅の北側にある美容室

 私の父の実家が山北駅の近くにあり、子どもの頃は毎年数回訪れていた。夏休み、従兄に連れられて酒匂川で鮎釣りをしたり、ミカンの木に「鳥もち」(今は禁止されています)を仕掛けてメジロを捕まえたりした思い出がある。ボ~とした小学生だったので記憶が定かでないことも多いのだが、駅の周りの様子は今とはだいぶ違っていた。駅の北側の方が表口のような感じで商店街もあった。最近テレビドラマのロケで使われたレトロな佇まいの店も残っている。それに引き換え南側は殺風景だがホームからほぼ段差なく踏切を通って改札を出ることができた。

 父の実家は駅の南側に出て左に3分ほど歩いたところにある。今は立派な町役場が前にあるが、当時は電電公社の建物があった。その短い距離の間に、使っていないコンクリート製の給炭台のようなものがあった。そこに上がって沼津方面から来た機関車が転車台で方向を変え出発する様子を眺めていたことがある。横には日通の倉庫があった。駅の南側国府津よりのところに転車台があり、昭和44年以降も使わなくなった転車台がしばらく残っていた。高校生(昭和47年頃)になってその転車台を撮影した記憶があるがネガも写真も見当たらない。今となってはその転車台がどの辺にあったのかはっきりしないが、電電公社、町役場と公的な利用がされているということはこの一帯が山北機関区(国鉄)の敷地というか国有地であったからだろう。

D51の足回りに極大のボイラを載せたD52

 D52はD51と同じミカド形の軸配置に許容される最大限の軸重に収まるように超大型ボイラを搭載した設計で基本設計はD51以降の近代化標準機の手法が踏襲されてる。
D51の足回りにいかに極大のボイラを載せるかが設計上のテーマであったようだ。

1951年以降の整備改造後のD52 カツミシュパーブラインシリーズ

 基本設計の完成したころから、戦時の急迫のため、極力製作工数を削減し、また、資材の節約を最大限に計った、いわゆる戦時設計が要求された。銅、錫等の非鉄金属は極力代用品を使用することとし、デフレクター(煙除け)、ランボード(歩み板)等の木材で間に合うものは努めて代用、ドームカバーの工数の省略(四角)工作の厄介なものは廃止といった具合であった。したがって昭和18年に誕生したときの戦時設計D52の形態は、超大型機の期待に必ずしもふさわしからぬものであった。しかし、性能的には所期の目標通りD51をかなり上回る高性能が得られたようだ。16番の模型でもアダチから発売されたD52はこの戦時形から発売された。角型ドーム、木製のデフ・ランボード、テンダーの石炭囲い部など誕生時の姿を模型化している。私としては美しいとは思えず、手持ちの機関車と混在させる気にはならない。

バックサインをつけて広島駅で上り特急かもめの到着を待つD52 という妄想 
瀬野機関区では山陽本線の花形列車である「かもめ」の補機にテールマークを装着した。写真のマークは広島区の機関車用のヘッドマーク。ヘッドマークは所属機関区、梅小路、広島、下関、門鉄局共通で違う。

D52が面目を一新し、原設計通りの性能に戻ったのは、1951年以降の整備改造後である。徹底的な点検と整備の動機は、1945年にボイラ破裂事故が3件も起こったからである。整備改造は浜松と鷹取の国鉄工場、少数は広島工場でも担当した。内容はボイラ外火室板の取り換えまたは新ボイラーとの交換が主体で、新規には自動給炭機(ストーカー)を搭載している。給水温め器を煙突前方に移設、炭水車に中梁を設ける、ドーム、煙誘導版(デフ)及び炭庫上部の柵などの原設計への復帰等はD51戦時形と変わらない。「不格好な戦時形のD52が工場に入ってくると、約10日位の工程ですっかり見違えるような形態と充実した内容となって出て行くのを、深い満足感でい送った」(久保田 博著 懐想の蒸気機関車)